◆ 天保10年(1839年)

-晋作1歳-
・8月20日 高杉晋作、萩城下菊屋横町に生まれる。

◆ 嘉永6年(1852年)

-晋作15歳-
・ペリー浦賀に来航→長州藩、相模西南海岸を幕命により警備する。

◆ 安政4年(1857年)

-晋作19歳-
・晋作、松下村塾に入る。

◆ 安政5年(1858年)

-晋作20歳-
・江戸昌平黌に進学のため、東遊に出る。

◆ 安政6年(1859年)

-晋作21歳-
・12月5日、吉田松陰 野山獄に下獄。
・4月、吉田松陰、佐久間象山に晋作を紹介する書簡を送る。
・7月9日、吉田松陰、伝馬町牢屋敷に入獄。

*この間、松陰のために資金の調達、文具、典籍などの送付に奔走する。

・10月27日、吉田松陰処刑される。(享年30歳)

◆ 万延元年(1860年)

-晋作22歳-
・3月3日、桜田門外の変
・井上平右衛門の二女マサと結婚。
・8月28日、江戸より東北遊歴の旅に出発。「試撃行日譜」執筆。
笠間で加藤有隣松代で佐久間象山、福井で横井小楠に出会い、おおいに薫陶を受ける。

◆ 文久2年(1862年)

-晋作24歳-
・清国情勢探索のため上海へ渡海(4月~7月)
・常陸国に亡命を図るが、加藤有隣に説得され江戸藩邸に戻る。
・12月12日、品川御殿山に建設中の英国公使館を、同志13名と共に焼き討ちする。

◆ 文久3年(1863年)

-晋作25歳-
・1月5日、久坂、伊藤らと共に小塚原の押田松陰の遺骸を世田谷の毛利山に改装(現、松陰神社)
・3月、攘夷祈願のため賀茂神社に行幸する孝明天皇を参観する。
・3月16日、京都にて頭を剃って僧形になり、「東行」と号す。
・5月10日、下関で攘夷戦争始まる。
・6月7日、下関・白石正一郎邸で奇兵隊を結成。
・6月27日、奇兵隊総督を命じられる。
・8月16日、教法寺事件。晋作、奇兵隊総督を罷免される。(9月中旬)
・8月18日の政変 長州藩が京都を追われると共に、七卿落ち。
・10月、生野の変(白石廉作自刃)

◆ 文久4年(1864年)

-晋作26歳-
・1月28日、防府の大専坊で来島又兵衛遊撃軍の京都進発阻止を説得。失敗、脱藩して上京する。
*2月元治改元

◆ 元治元年(1864年)

-晋作26歳-
・3月、脱藩の罪で野山獄に投ぜられる。(6月21日まで、その後は自宅蟄居)
・6月5日、池田屋事変(宮部鼎蔵、吉田稔麿ら殉死)
・7月19日、禁門の変がおこる。久坂玄瑞、入江九一など死去。
・8月5日~7日 英米仏蘭の四国連合艦隊が関門海峡に来襲。
・8月8日 高杉晋作 講和談判
・11月10日 平尾山荘の野村望東尼に匿われる。(11月20日まで)
・11月25日 高杉晋作、福岡より馬関に戻る。
・12月15日 下関で功山寺決起新地会所を襲撃

◆ 元治2年(1865年)

-晋作27歳-
・1月、大田絵堂の戦い始まる。藩の内訌戦で晋作たちが保守派を一掃する。
・3月、伊藤俊輔とともに洋行目的で長崎に行くが、「馬関開港」をグラバーに勧められ方針転換。
*4月慶応改元

◆ 慶応元年(1865年)

-晋作27歳-
・4月~6月、馬関開港論により長府藩士たちの怒りを買い、おうのと四国に亡命する。
・6月上旬、下関へ帰る。桂小五郎の斡旋で帰藩する。伊藤、井上を長崎に遣わし、武器調達。
・8月6日、桜山招魂社完成、落成式
・8月、坂本龍馬の仲介で軍艦ユニオン号購入と小銃7,300挺、三田尻へ運ぶ。

◆ 慶応2年(1866年)

-晋作28歳-
・3月21日 薩英会盟に加わるため、長崎にしばらく滞在。軍艦オテントー丸を無断購入。
・6月5日 幕府による第二次長州征討、四境戦争が始まる。
・6月6日 海軍総督を命じられる。
・6月12日 大島口の戦い 久賀沖に碇泊中の幕府軍艦4隻を奇襲攻撃して成功。
・6月17日 小倉口の戦い始まる。
・8月1日 小倉城炎上 長州藩、幕府軍に勝利する。
・8月22日 休養のためおうのを伴い、屯所を離れる。
・9月16日 姫島流罪の野村望東尼を救出させ、下関の白石正一郎宅に迎える。
・10月27日 新地桜山招魂社の下の「東行庵」に移り療養。詩作で自らを慰める。

◆ 慶応3年(1867年)

-晋作29歳-

・3月 桜山の東行庵より、新地の林算九郎宅に移り療養。
・3月29日 藩主より100石を賜り、谷家を創設する。谷潜蔵と改名。
(息子・東一が明治20年旧姓高杉に復するまで、谷姓を名乗った)
・4月13日午前2時 高杉晋作死去
・4月16日 遺言により、吉田村の清水山に葬られる。(現 吉田東行庵

・6月末 野村望東尼、下関より山口に移る。
・9月25日 野村望東尼 防府に移る
・11月6日 野村望東尼没す。62歳。 防府桑山に眠る。