グラバー邸

グラバー邸


イギリス渡航を藩から許可された晋作は、伊藤博文とともに、長崎に向かうことになった。藩は表向きは英学修行の為に横浜へ派遣するという辞令を出して、二人に対して旅費三千両を準備し、元治2年(1865)3月、馬関に寄港したイギリス商船ユニオン号に便乗した。長崎に着いた晋作と博文は、イギリス商人のグラバーと邸宅で接触し、イギリスへの渡航を頼んだ。

準備が整うまでの間、イギリス領事のラウダーに英語を教えてもらう為にその家でお世話になった。ラウダーは「長州が大変な今、洋行すべきでない」と、二人の渡航を思いとどままらせ、グラバーもそのすすめに賛同し、渡航を断念した。この時下関の開港を勧められ、領事が用意した貿易についての書類を携え下関に戻った。

同時期、長崎の上野彦馬撮影局で伊藤博文・三谷国松と写真を撮影している。

その後のグラバーと長州藩

亀山社中の近藤長次郎が、グラバーと交渉し、蒸気船「ユニオン号」を薩摩名義で購入することに成功。薩摩藩は「桜島丸」と名付け、亀山社中がが操船するという「桜島丸協定」が結ばれて運用された。
薩摩藩の名義を借りグラバーより購入した武器を積んで、長州に運んだ。

(記述:原田哲也)

出典:月刊「高杉晋作」ザ・メディアジョン他

所在地・アクセス

所在地:長崎市南山手町8-77

アクセス:長崎駅から路面電車「大浦天主堂」下車 徒歩5分

公式ページhttps://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/171

丸山の料亭・花月

丸山の料亭・花月


文久2年(1862)1月2日、高杉晋作は上海行きを藩より命じられ長崎に向かった。到着後、長崎の客舎にて、国(藩)の役に立ちたいと父あての手紙を書いている。
この時、4月29日に千歳丸が長崎港を出発するまでの約100日、暇をもてあました晋作は、丸山の料亭花月で派手に遊んだ。晋作の懐には長州藩より支給された500両があった。

料亭「花月」について

花月は寛永19年(1642)に創立した遊女屋引田屋(ひけたや)の庭園内に文政元年(1818)の頃造られた茶屋の名称である。大正末年、引田屋は廃業したが、花月の名称と引田屋の庭園、建物は現在に伝承され、昭和35年(1960)には長崎県の史跡に指定され、全国的に珍しい史跡料亭となった。

花街丸山には江戸から幕末、明治と長崎で活躍した国際人の社交場であり文人墨客も数多く訪れたが、花月も例にもれず。坂本龍馬がつけた刀傷の跡が床柱に残る「竜の間」や、タイル貼りの床に和風の天井、中国の様式を取り入れた窓を使用した日本で最初の洋間「春雨の間」。また、なかにし礼原作『長崎ぶらぶら節』で有名となった名妓・愛八直筆の歌本や写真、坂本龍馬直筆の書などを展示する集古館など、花月の歴史を物語る見どころも数多くある。各部屋から見渡せる元禄時代に造られた庭園も素晴らしい。

(記述:原田哲也)

出典:月刊「高杉晋作」ザ・メディアジョン他

所在地・アクセス

所在地:長崎県長崎市丸山町2-1

アクセス:長崎電気軌道(西浜町-正覚寺下)思案橋駅 徒歩6分

公式ページhttps://www.ryoutei-kagetsu.co.jp/

崇福寺

崇福寺


高杉晋作は、丸山で遊び呆けていたばかりでなく、英会話の勉強もしたそうである。彼は清国行きを効果的にする準備をしているが、とくに海外の事情に詳しい人々を訪ね情報収集に務めている。崇福寺に滞在していた宣教師のウイリアムズやペーパーバックに、アメリカの南北戦争や清国の内乱の最新情報を聞く。アメリカには日本のような身分制度はなく、ワシントンのように能力さえあれば、誰でも大統領になれるなどの話を聞いた。他にも英会話を習ったり、フランス、ポルトガル、アメリカの領事を訪ねたり、延々と続いた長崎滞在も得るところが多かったようである。

そして5月には、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ幕府の千歳丸で渡航を果たす。
長崎は「晋作が、世界を意識し欧米による植民地阻止を考えた」大切な場所であった。

(記述:原田哲也)

所在地・アクセス

所在地:長崎県長崎市鍛冶屋町7-5

オランダ商館・出島

オランダ商館・出島

高杉が軍艦購入を決めた地

高杉晋作は、渡航先の上海で清が欧米の植民地となりつつある実情や、太平天国の乱を見聞して7月に帰国、日記の『遊清五録』に大きな影響を受けたことを書き記している。
薩摩藩が蒸気船を購入したことを五代から聞いた晋作は、帰国直後長崎でオランダ商館にて蒸気船の購入契約を独断で行うも、藩政府で大問題となり破談に終わる。

晋作の独断は、上海の情勢を観て、とにかく海軍を充実させなければならないという使命感から行動を起こしたものだった。重職・周布政之助だけは、晋作を応援する意見を述べている。

ちなみに、出島は来舶ポルトガル人を居住させるために海中を埋築し、寛永13年(1636)完成した。寛永14年島原の乱が起こり同16年(1639)幕府はポルトガル人を渡航禁止にした。これにより出島は空家となった。そこで寛永18年(1641)平戸のオランダ商館をここに移した。以来、安政の開国まで約220年間、出島は阿蘭陀屋敷(おらんだやしき)と呼ばれた。出島のオランダ商館では、この地を通じて日本とヨーロッパを結ぶ経済・文化の交流がおこなわれ、日本の近代化に果たした功績は大きい。

(記述:原田哲也)

所在地・アクセス

所在地:長崎県長崎市出島町6-1

アクセス:長崎駅前から路面電車「崇福寺行き」乗車「出島」下車 徒歩すぐ (または「新地中華街」下車 徒歩1分)

公式ページhttps://nagasakidejima.jp/

上野彦馬撮影局跡

上野彦馬撮影局跡


元治2年(1865年)長崎にて、高杉晋作が伊藤博文・三谷国松と一緒に写真に写ったのがここである。

慶応2年(1866年)1月薩長盟約が結ばれた。同年5月、伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられたが中止となった。その寄港地の長崎で、蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を独断で購入している。軍艦「丙寅丸」は3万6千両でと高額であった。

またこの時、上野彦馬撮影局で「有名な椅子に座った写真」を撮り、妻のお雅の求めに応じて写真を送っている。(背が高くない晋作は、それを意識してか、座った写真しか残していない。)

上野撮影局について

文久2年(1862)暮れ。上野家の別荘であり、父俊之丞の化学の実験所でもあった中島川河畔に彦馬は日本最初の商業写真館・上野撮影局を開設した。彦馬はフランス人写真家ロシエに師事したことからフランス系の写真術を苦労の末取得し、プロカメラマンとなった。創業当時の撮影料は銀二分であった。上野撮影局、彦馬はここで高杉晋作、坂本龍馬らを撮影したとされる。小川のほとりの遊歩道の一角の小さなスペースにスタジオカメラと長時間露光の間動かずにいなければいけないモデルが寄り掛かるための台座がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

上野彦馬・維新伝

原田哲也作「上野彦馬・維新伝」
 原田作の「上野彦馬・維新伝」は、晋作、龍馬、慎太郎らが撮影の順番待ちをしている空想図。写真きらいな西郷さんを大久保が追いかけている、屋外光の撮影であった。

(記述:原田哲也)

所在地・アクセス

所在地:長崎県長崎市伊勢町4-14