防府天満宮社殿

防府天満宮


防府天満宮は、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮とならび日本三天神と称され、菅原道真公が大宰府で逝去した翌年延喜4年に建てられた日本最初の天満宮でもある。
*道真公が、無実の知らせを待ちながら、三田尻(本州最後の寄港地)で過ごした際、この地をたいそう気に入り、「死んだらこの地に戻って来る」と誓われたことに由来する。

高杉晋作は、文久元年(1861)7月、江戸に向かう際の日記に「朝七時半発程、宮市菅公祠(現防府天満宮)に謁す」と記述している。熱心な天神信仰者としても知られ、奇兵隊の守護旗として「菅原大神」を使用している。しかし、晋作の天神への信仰心は、一般的な神仏に対するものではなく、左遷されても朝廷に対する忠義を尽くした菅原道真という人間を崇拝するものであった。 
晋作は野山獄など度重なる不遇な境地に置かれる度に、道真公の境遇に己を重ね、精神的支えとしたのである。
そして、この天神信仰こそが、王政復古につながり明治維新を成し遂げるための原動力となったと言えるだろう。

また、晋作と縁の深い、野村望東尼も熱心な天神信者であり、下関で晋作を看取った後、薩長連合軍の必勝を祈願するため、防府天満宮に断食をしながら7日間参拝し1日1首の短歌を奉納する。
しかし、その時の無理がたたり、この地で最期を迎える。

防府天満宮の境内には、望東尼の歌碑と胸像が建立されている。
歌碑は二つあり、晋作との合作

 面白きこともなき世を(に) おもしろく すみなすものは心なりけり

と天満宮に奉納した7首の最初の歌

 ものゝふの あだに勝坂越えつゝも 祈るねぎごとうけさせたまえ

が刻まれ、胸像は、やさしい顔立ちで合掌している。

防府天満宮の境内には、晋作の諱と同じ名を持つ、春風楼がある。(未完の五重塔で明治に舞台として建造)ここから防府市街を一望してみると、晋作たち、幕末の志士が奔走している姿が目に浮かんでくるようである。

(記述:吉本良太郎)

所在地・アクセス

所在地:山口県防府市松崎町14-1

大専坊跡

大専坊跡

来島又兵衛 遊撃軍の屯所

防府天満宮参道の石段を登ると左手に大専坊跡と書かれた山門がある。(写真参照:大専坊跡)防府天満宮には、9つほど社坊(神社の世話をする寺)が参道に設けられ、大専坊はこれらをとりまとめる別当であった。
明治元年の神仏分離令により全国の社坊が廃されたが大専坊は免れて現存している。
この大専坊は、毛利元就が大内義長を追放し防長二州を治めた時の参謀本部として使われ、幕末では長州藩が遊撃軍の屯所にするなど歴史上重要な史跡である。
元治元年、来島又兵衛は大専坊に陣を構え、遊撃軍(諸隊11、兵500人)を率いて京都に攻上ろうと準備を進めていた。前年の政変により京都から追放された長州藩の失地回復のため、武力を背景に嘆願しようというのである。
藩政府の中枢にいた晋作は、藩主世子の命により来島の進発を阻止するため大専坊を訪れ親書を渡して激論を交わした。
しかし来島は、脱藩してでも行く覚悟であり物別れに終わる。(写真参照:大専坊内部)
翌日は天満宮の春季例祭で、来島が出陣勝敗の吉凶を占うため相撲の興行を始めた。晋作には、藩の一大事を神事と称して相撲で決めるなどとても理解できなかった。この天神に対する信仰心の違いもあり「とても口にて論ずるは無益」とし京都で奔走する桂小五郎、久坂玄瑞と今後を相談するため、三田尻に隣接する富海浦から飛船(写真参照:飛船問屋大和屋政助の船蔵)で上京する。これが脱藩となり、晋作は京都から連れ戻され野山獄に幽閉される。
このことが晋作の命を救うことになり、藩の革命(回天義挙)、四境戦争での勝利そして明治維新・王政復古への足掛かりを築くことになったと言える。

富海飛船

幕末期は、多くの勤王の志士が富海飛船を利用して大阪へ往来した。例えば吉田松陰が江戸に遊学する際、晋作が福岡に亡命する際も利用しており、京都から追い落とされた七卿も兵庫から三田尻まで飛船を利用した記録が残っている。

(記述:吉本良太郎)

所在地・アクセス

所在地:山口県防府市松崎町14-1

英雲荘と大観楼

三田尻御茶屋-英雲荘と大観楼-


萩往還の終点にある三田尻の御茶屋は、藩主の参勤交代や来客迎賓等藩の公館の役割を果たし明治以降は毛利家の別邸として使用された。昭和14年に防府市に寄贈され、防府に縁の深い毛利重就(英雲公)の法名から「英雲荘」と命名される。
*毛利重就 藩の財政を立直した名君で防府には、大規模な塩田を築いた。また、藩主隠居後に側室や子女とともに三田尻御茶屋に居住した。

文久3年、政変で京を追われた三条実美ら七卿が約2ヶ月間、英雲荘の2階にある大観楼に滞在(写真参照:英雲荘と大観楼・七卿の間)し、藩主父子や高杉晋作らが訪れ、国事を語り合った。
また、御茶屋の敷地内に置かれた招賢閣には、京での尊攘派の失脚に伴い脱藩して集まった浪士たちが寄宿して修練しながら、奇兵隊とともに七卿の護衛に当たった。(特殊任務にも就き、諜報活動や池田屋事件、禁門の変などにも参加)
浪士の中には、久留米の真木和泉、肥後の宮部鼎蔵、土佐の中岡慎太郎、福岡の中村円太などもいた。
当時は、御茶屋の近くまで港があり、軍港としての役割も重要で禁門の変、戊辰戦争の際もここから出港している。
また、高杉晋作が下関で挙兵した後、20名の決死隊で海軍局を襲撃し、軍艦を奪取したのもここである。
現在は、埋立でほとんどが消失しているが、外周水路の遺構(写真参照:三田尻御船倉跡)に面影を見ることができる。

(記述:吉本良太郎)

所在地・アクセス

所在地:山口県防府市お茶屋町10-21

望東尼終焉の地

野村望東尼・終焉の地


三田尻(防府市)は、高杉晋作と縁の深い野村望東尼の終焉の地である。
長州藩の俗論(保守)派から逃れ福岡に亡命した晋作は、平尾山荘に匿われ、望東尼からの餞別の旅衣を手にし長州へ立ち帰り挙兵、藩政権を再び正義(改革)派に奪い返した。
その後、望東尼が福岡藩の勤王派弾圧(乙丑の獄)により姫島に流刑となったことを知った晋作は、藤四朗ら6人の筑前藩士を向かわせ救出する。
望東尼は、下関で肺結核により病床となった晋作と再会し、共に暮らす「うの」と二人で懸命な看病をした。

晋作を看取った望東尼は、楫取素彦(吉田松陰の義弟で藩主の懐刀)の招きで山口に移住(晋作は楫取と望東尼を引合わせており、その際自分が死んだあとの後ろ盾を頼んだと思われる。)

慶応3年9月、薩長連合軍が密かに三田尻に集結を始める。
望東尼は、山口から三田尻へ向かう長州藩士を見送るが、自分が参加できない悔しさを抑えられず、22キロを歩き松崎天満宮(防府天満宮)に参拝し戦勝祈願を行う。
望東尼は、三田尻本町の荒瀬百合子(豪商の未亡人で歌や文芸を好む)宅に身を寄せ、7日間絶食しながら七首の和歌を奉納した。
その後も精力的に活動し、桑山山頂に登り三田尻中関港に到着した薩摩船を眺めている。(写真参照:桑山から望む三田尻)
10月、望東尼が病に臥すと楫取の妻寿子(松陰の2番目の妹)が山口から見舞いに来たり、藩主からの御見舞いも届いた。
望東尼は長州藩から御客分として二人扶持を賜っており、これらは勤王の歌人で晋作の命の恩人であることの感謝のあらわれであろう。
望東尼は11月6日荒瀬宅で息を引き取り(写真参照:望東尼終焉の地)葬儀は、三田尻の正福寺(写真参照:正福寺)で行われ桑山に埋葬、毎年命日には大楽寺で、法要が営まれている。
明治26年望東尼に正五位が追贈されると、楫取が中心となり顕彰碑を兼ねたお墓を新設、裏面には自らの撰文が刻まれる。(写真参照:望東尼のお墓)
楫取は三田尻と縁が深く、討幕軍第1陣の参謀として出陣、三田尻宰判管事の任務、奇兵隊諸隊の反乱(脱退騒動)の鎮圧にあたるなどした。晩年は邸宅を構えて、後妻の美和子(松陰の4番目の妹で久坂玄瑞の未亡人)と過ごした。お墓は桑山大楽寺にある。

 冬ごもり こらえてこらえて 一時に 花咲きみてる 春はくるらし

望東尼が亡くなる7時間前に詠んだものである。
望んでいた春(維新の夜明け)がやってくる、そんな喜びが表現されている。

(記述:吉本良太郎)

所在地・アクセス

所在地:山口県防府市寿町7番1号