京都御所
■八月十八日の政変
元治元年(1864)8月18日、京でクーデターが起きる。尊皇攘夷派の中心的立場であり朝廷にも大きな影響力を持つ長州藩の存在をこころよく思わない公武合体派の薩摩藩・会津藩が手を結び、京から長州勢力を一掃しようとしたのであった。これにより長州藩は勢力を失い、三条実美はじめ長州藩と親しい公家達も官位を剥奪され、京から追放されてしまった。
■禁門の変
元治元年(1864)7月19日、前年の8月18日の政変(クーデター)で京を追放された長州藩と会津藩・薩摩藩を中心とする幕府の勢力の武力衝突「禁門の変」が起きた。結果長州藩は、多くの犠牲を払いながら敗北する。さらに長州藩にとって災いとなったのは、御所を戦場にしてしまったことだ。天皇や貴人の住まいである御所に向けて発砲した長州藩はこの後朝敵とみなされ、幕府による長州征討が始まる。
池田屋事件で新選組との戦闘で吉田稔麿を失った長州藩はこの時の事変により更に久坂玄瑞、入江九一、来島又兵衛を失い、松下村塾四天王のうち残ったのは高杉晋作ひとりになってしまった。
禁門の変より遡ること半年前の文久四年(1864)1月28日。藩主の命を受けた高杉晋作は、遊撃隊を率いる来島又兵衛に京都進発を思い止まるよう説得に行く。だがこれに失敗した後、報告に戻ることもなく、そのまま脱藩。高杉は京にいる周布政之助や桂小五郎に会うべく、山田市之允を伴い京に行くのである。後に桂小五郎に説得され長州に戻ったものの、後日この脱藩の罪を問われて3月29日、萩の野山獄に投獄された。
次々と事変が起こる中、野山獄から自宅の座敷牢へと移され、謹慎が解かれる8月3日迄の4ヶ月間、高杉は何も行動を起こす事が出来なかった。しかし、それで高杉晋作の命が守られたことは、その後の長州藩にとっては幸いであった。
(記述:奥重靖徳)