高杉晋作誕生地

高杉晋作誕生地


「幕末の風雲児」と呼ばれ、長州藩最強兵団「奇兵隊」を結成した「高杉晋作」は天保10年(1839)8月20日に長門国萩城下菊屋横丁(現在の山口県萩市)に長州藩士「高杉小忠太」と「みち」の長男として生まれた。

今も残る家屋で、当時のままを見る事ができる。現在は南側半分が一般公開されており、晋作誕生の際に産湯に用いたと伝わる井戸や自作の句碑がある。

晋作の写真や書と共に妻の雅、息子の東一の写真も展示されている。
晋作は19才まで萩で過ごし、この家に住んでいたと伝えられている。
誕生地の近くには晋作広場があり、若き晋作の銅像が佇んでいる。

(記述:槇垰賀之)

所在地・アクセス

所在地:山口県萩市南古萩町23

アクセス:JR東萩駅 徒歩20分

松下村塾

松下村塾


平成27年(2015)NHK大河ドラマ「花燃ゆ」が放送された年に「松下村塾」は世界遺産に登録された。
今も萩・松陰神社境内の中に、当時の姿のまま佇んで居る。

安政4年(1857)高杉晋作」は幕末の思想家「吉田松陰」が主宰する私塾「松下村塾」に入塾。
松下村塾の門下生には後に晋作と共に「双璧」と呼ばれた「久坂玄瑞」がいる。さらに「吉田稔麿」、「入江九一」、「伊藤博文」や「山県有朋」、「前原一誠」、「山田顕義」など幕末から明治にかけて活躍する人物を輩出。

吉田松陰の教えのひとつである「草莽崛起(そうもうくっき)」(草莽とは「在野の民衆 」、崛起は「立ち上がれ」という意味)を晋作が実践し、具現化したのが「奇兵隊」と言われている。

安政6年(1859)「安政の大獄」によって処刑された吉田松陰の死を契機に、晋作は仇を討たねば相済まぬと倒幕へと突き進む。

尊皇攘夷と倒幕の志。それは「死して不朽の見込みあればいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし」という師・松陰が示した教えであった。

松下村塾は高杉晋作が幕末の動乱へと身を投じた、まさに起源と言える場所ではないだろうか。

(記述:槇垰賀之)

所在地・アクセス

所在地:山口県萩市椿東1537番地

アクセス:JR新山口駅 中国JRバス 山口市経由(特急はぎ号)で約90分

公式ページhttps://showin-jinja.or.jp/

団子岩(吉田松陰の墓及び墓所)


「松下村塾」を主宰した「吉田松陰」とその家族、門下生が眠る吉田松陰の墓は、吉田松陰誕生地に隣接し「団子岩」とよばれる小高い場所で萩の町を見下ろせる場所に建っている。 吉田松陰の没後100ヵ日にあたる1860年(万延元年)2月7日に生家の杉家では百ヵ忌を営み、護国山団子岩の吉田家墓地に家族や親戚、高杉晋作、久坂玄瑞ら門下生が出席し、故人の霊を弔い遺髪を埋葬した。 そして同月15日に松陰の墓碑を建立される。

表には「松陰二十一回猛士墓」、裏には「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれている。 墓前の水盤や花立は、高杉晋作や久坂玄瑞、入江九一、前原一誠ら門人達の名前入りで寄進されたものである。 また同じ敷地に墓が多く見られるが、それは松陰の父「杉百合之助」や兄の「杉民治」、叔父の「玉木文之進」、義弟となった「久坂玄瑞」ら一族の墓のほかに高杉晋作、吉田稔麿のものだ。

高杉晋作の墓には高杉晋作の胎毛と臍の緒が埋葬されている。 団子岩の墓所の入口に「高杉晋作草庵跡地顕彰碑」がある。これは、 1863年(文久3年)3月に10年間の暇を許され京都で剃髪し東行と号した高杉晋作が4月に帰萩し、団子岩の麓に草庵を結んだという記念碑である。 師である吉田松陰の誕生地であり墓所の近くで吉田松陰の遺著を読み、妻の雅と一緒に過ごしたと言われている。 正確な位置はここではないとされるが、師が眠る団子岩のそばに晋作が実際に過ごしたと思うと、胸が熱くなる。(記述:槇垰 賀之)

二十一回猛士(松陰)の墓

高杉暢夫の墓

晋作の草庵趾の顕彰碑

所在地・アクセス

所在地:山口県萩市大字椿東

野山獄

野山獄


「野山獄」は安政元年(1854)海外密航に失敗した「吉田松陰」が投じられた獄として知られている。

このすぐ向かい側に「岩倉獄」があり、共に捕らえた弟子の「金子重之助」が投獄され、命を落とした。

藩内の論争で脱藩の罪で捕らえられた高杉晋作も野山獄に入牢し、獄の中で「投獄文記」という手記に「先生を慕(した)ふて漸(ようや)く野山獄」と残している。

「甲子十一烈士」ら「正義派」だけでなく、「俗論派」の「椋梨藤太」など多くの人物が処刑されたところでもある。

住宅街の中に位置するこの獄舎跡であるが、現在は当時の敷地の一部を保存して碑が建てられ、幕末動乱の様相を残す重要な史跡となっている。

(記述:槇垰賀之)

所在地・アクセス

所在地:山口県萩市今古萩町35-6

萩藩校 明倫館

萩藩校明倫館


萩藩校明倫館は享保4年(1719)に5代藩主「毛利吉元」が毛利家家巨の子弟教育のために開いた藩校である。

嘉永2年(1849)に堀内地区から現在地の江向地区に拡大移転した。

敷地内には学舎や水練池、土佐の「坂本龍馬」も剣術修行に来た有備館が現存している。

ここで「吉田松陰」や「楫取素彦(小田村伊之助)」も教鞭を執り、桂小五郎(木戸孝允)らが学んだ。

武士の子である晋作もこの萩藩校明倫館で学んでいたが、その授業に飽き足らず、やがて生涯の師・吉田松陰と出会うことになる。

(記述:槇垰賀之)

所在地・アクセス

所在地:山口県萩市江向602

萩城跡

萩城跡


萩城は慶長9年(1604)「毛利輝元」が指月山麓に築城したことから「指月城」とも呼ばれていた。

明治7年(1874)に天守閣、矢倉などの建物は全て解体される。

現在は石垣と堀の一部だけであるが国の史跡に指定され、平成27年(2015)には世界遺産に登録された。

旧本丸跡には明治に入り「志都岐山神社」が創建されている。祭神は毛利元就・隆元・輝元・敬親・元徳の五柱で、初代から12代までの歴代藩主を祀る。

また13代藩主「毛利敬親」の別邸「花江御殿」に増築し、家臣とともに茶事に託して時勢を論じた茶室「花江茶亭」が明治22年(1890)に園内に移築された。

代々毛利家恩顧の臣であった高杉家で、晋作の父・小忠太は馬廻り役であった。晋作も何度も登城し、一時期は世子の小姓役も務めている。

(記述:槇垰賀之)

所在地・アクセス

所在地:山口県萩市堀内1-1

アクセス:萩循環まぁーるバス(西回りコース)「萩城跡・指月公園入口 北門屋敷入口」バス停下車 徒歩5分

公式ページhttps://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100049