呑象楼

呑象楼

晋作の恩人・日柳燕石との出会い

この家屋は、天保年間(1930~1844年)琴平町榎井にある興泉寺住職の隠居先として建てられる。
1853年から12年間、地元が生んだ幕末の勤王家【日柳燕石】が住居として使用したことで知られる。
日柳燕石は全国に知れ渡った勤王侠客で、吉田松陰・高杉晋作・坂本龍馬・桂小五郎など多くの勤王志士との交流があった。

建物の2階には壁のどんでん返し、床の間の掛け軸後ろの抜け穴、はしご階段の仕掛けなどが今も残っている。初めは「柳東軒(りゅうとうけん)」などと呼ばれていたが、2階西側の窓から象頭山を盃に浮かべて飲み干したことから、「呑む」「象」「楼」と呼ばれるようになった。

金毘羅参詣の容姿で4月下旬頃琴平に入った晋作とおうのは参詣をした後、呑象楼に燕石を訪ねた。二人は激論を交わした結果、意気投合。燕石は晋作を庇護することにした。
潜伏といっても、一つの部屋に閉じこもっていたわけでなく、朝は呑象楼にいたかと思うと、午後には丸亀の越後屋という勤王の醤油屋で同志たちと歓談。夜には琴平の花街で宴を張るという具合に積極的に行動していた。

(記述:長田祐子)

所在地・アクセス

所在地:香川県仲多度郡琴平町榎井58-3

金刀比羅宮

金刀比羅宮

おうのと一緒に参詣したこんぴらさん

金毘羅大権現とも称され、古くから「さぬきのこんぴらさん」と親しまれている海の神様。
御本宮まで785段、奥社まで1368段の長い石の参道が有名。
江戸時代、「お伊勢参り」と並び「こんぴら参り」が全国的に大流行した。

慶応元年(1865年)馬関戦争敗北後、長崎のグラバーの意見を容れて馬関開港を企図した高杉晋作・伊藤博文・井上聞多の3人は馬関を萩本藩の直轄地にしようとして、支藩の長府と清末藩士の反感を買った。身の危険を感じた3人は亡命を決意。伊藤は対馬、井上は別府、そして晋作は愛妾おうのと下僕の民蔵を連れて逃避行の旅に出た。
晋作は「備後屋助一郎」と変名し、いったん大阪に逃れる。そこから伊予道後温泉へ入り7日間滞在後、多度津に入港。丸亀を経て4月末頃琴平に入り金毘羅宮を参拝する。

晋作にとっては2度目の参拝となる。
1度目は万延元年(1960年)5月3日、海軍蒸気科修行のため江戸に行く途中に立ち寄り参拝している。

(記述:長田祐子)

所在地・アクセス

所在地:香川県仲多度郡琴平町892-1

アクセス:JR土讃線「琴平」下車 徒歩(または琴電琴平「琴電琴平」下車 徒歩)

公式ページhttp://www.konpira.or.jp/

丸尾本店

丸尾本店

晋作も飲んだ銘酒

日本酒銘柄【悦凱陣】を醸す丸尾本店は金毘羅宮参道の趣のある街並みが続く一角に位置し、古くは勤王の志士たちが出入りした由緒ある蔵元。

琴平に滞在中の晋作とおうのは燕石の同志の家を転々としていた。
その一つが、燕石の幼馴染の勤王家で酒造家の長谷川佐太郎の家「新吉田屋」である。
佐太郎は離れの茶室を晋作とおうのに提供。晋作はその茶室を「梧陽堂」と名付け、近隣の志士たちと吉田屋の酒を飲みながら密談していた。
また、佐太郎が予期せぬ時に捕吏が踏み込んできた際、晋作とおうのは酒樽の中に身を潜め難を逃れたと言われている。

現在も建物の何割かは当時のままであり、茶室跡には「梧陽堂密談室跡」と期した木製碑が建てられていた。屋号は「丸尾本店」に変わったが、佐太郎の右腕的人物の子孫が酒造業を引き継いでいる。

(記述:長田祐子)

所在地・アクセス

所在地:香川県仲多度郡琴平町榎井93

日柳燕石ゆかりの料亭・松里庵

日柳燕石ゆかりの料亭・松里庵

晋作・うのの隠れ家

琴平の勤王家日柳燕石の子分半助が営んでいた料亭で、燕石が常用していた料亭として知られる。

慶応元年(1865年)4月下旬琴平に入った晋作とおうのはしばらくは呑象楼に匿われていたが、滞在が長引きそうなので金毘羅宮参道脇の松里庵近くの借家に移った。松里庵には密談に使う地下室や街道への抜け穴などが作られていた。

閏5月3日、晋作の行方を追う捕吏が丸亀に上陸し越後屋を襲撃。女主人が捕吏を歓待しているすきに手代が琴平に走っていき急を報じた。燕石は偽装の宴席を設けて、その間に地理に詳しい門人の古市麦舟を先導役に立てて晋作とおうのを琴平から逃がした。
麦舟は三豊から伊予川之江へ案内し、一泊。翌朝二人は長州に戻った。

晋作を逃がした後、燕石は晋作を匿った罪で捕縛される。
明治元年(1868年)出獄すると、長州で尼となったおうのと会い、病に倒れた晋作を偲んで詩を読んでいる。

故人は鬼となり 美人は尼となる 浮世の変遷 真に悲しむべし

(記述:長田祐子)

所在地・アクセス

所在地:香川県仲多度郡琴平小松町