毛利敬親

江戸麻布屋敷に誕生した毛利敬親(幼名:猷之進)は前藩主の急逝などもあり、弱冠18歳で毛利家13代藩主となる。敬親の藩治の要諦は、まず財政難の立て直しであった。村田清風ら財務に精通した家臣を採用し、自らも質素倹約を励行し、藩財政を立て直す。また江戸桜田藩邸に「有備館」を完成させ、萩には「明倫館」の充実・増改築を行い,文武両道を問わず武者修行を希望する藩士たち5〜10人を対象に、公費をもって藩外へ出した。第一期生には、吉田松陰や小田村伊之助がおり、江戸で学問に励んだ。また農民の米作に関わる労苦を自ら体験することを思い立ち、萩城内に水田を開き自ら田植えや稲刈りをおこなったという逸話が残る。農民や弱者に対しても常に配慮をする民政をおこなっていたので、人民からも厚い信頼を得ていた。当時、「脱藩」は捕えられたら処刑であったが、5回も脱藩をした高杉が常に守られたのも、この英明な藩主の配慮があったからであろう。世間で揶揄される「そうせい公」では決してない。高杉のみに限らず、毛利敬親の人材登用は優れていた。幕末維新期の回天事業に活躍し、維新後に長州出身者が各界で十二分に実力発揮した人員が存在したことは、敬親の力であったと言っても過言ではない。

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