吉田稔麿
松下村塾で、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一と並び四天王と称せられる。その秀才ぶりは村塾でも有数のものであった。高杉との逸話に関しては、ある日戯れに、放れ牛の絵を描きそれに烏帽子と木刀に棒切れを添えた。山縣有朋が「それは何か」と尋ねると、稔麿は「高杉は俗事にこだわらない俊才で、誰も繋ぎ止める事はできない、放れ牛だ。久坂玄瑞は雰囲気が立派なもので、烏帽子を被らせ大きな屋敷に座らせれば絵になるだろう。入江九一は少々劣るところもあるが、まぁ、木刀くらいのものである。斬ることはできないが、脅しには使える」と言った。有朋は、残りの棒切れは何かを尋ねた。稔麿は「それはお前だ、凡庸で何の取り柄もない」と答えたと言われる。元治元年6月5日、新撰組との闘争となった池田屋事変で、命を落とす。