井上聞多(のちの井上馨)
井上聞多の聞多(ぶんた)は、毛利敬親から拝領した名前。毛利元就以前から毛利家に仕えた名門の家で、毛利敬親の江戸参勤に従い下向したり、世子(のちの元徳)の小姓などを務める。彼は松下村塾には行っていないが、尊王攘夷運動に共鳴。高杉や久坂らとともに、イギリス公使館焼き討ちに参加するなど過激な行動を実践する。文久3年(1863)には、長州ファイブの一員として、イギリスに渡るが、翌年下関戦争では伊藤とともに急遽帰国して、和平交渉に尽力した。第二次長州征伐の前には、高杉の命を受けて伊藤とともに長崎へ行き、グラバーから武器を購入。幕長戦争では芸州口で戦い、幕府に勝利。広沢真臣とともに、幕府の代表勝海舟と休戦協定を結ぶ。