野村望東尼・終焉の地
三田尻(防府市)は、高杉晋作と縁の深い野村望東尼の終焉の地である。
長州藩の俗論(保守)派から逃れ福岡に亡命した晋作は、平尾山荘に匿われ、望東尼からの餞別の旅衣を手にし長州へ立ち帰り挙兵、藩政権を再び正義(改革)派に奪い返した。
その後、望東尼が福岡藩の勤王派弾圧(乙丑の獄)により姫島に流刑となったことを知った晋作は、藤四朗ら6人の筑前藩士を向かわせ救出する。
望東尼は、下関で肺結核により病床となった晋作と再会し、共に暮らす「うの」と二人で懸命な看病をした。
晋作を看取った望東尼は、楫取素彦(吉田松陰の義弟で藩主の懐刀)の招きで山口に移住(晋作は楫取と望東尼を引合わせており、その際自分が死んだあとの後ろ盾を頼んだと思われる。)
慶応3年9月、薩長連合軍が密かに三田尻に集結を始める。
望東尼は、山口から三田尻へ向かう長州藩士を見送るが、自分が参加できない悔しさを抑えられず、22キロを歩き松崎天満宮(防府天満宮)に参拝し戦勝祈願を行う。
望東尼は、三田尻本町の荒瀬百合子(豪商の未亡人で歌や文芸を好む)宅に身を寄せ、7日間絶食しながら七首の和歌を奉納した。
その後も精力的に活動し、桑山山頂に登り三田尻中関港に到着した薩摩船を眺めている。(写真参照:桑山から望む三田尻)
10月、望東尼が病に臥すと楫取の妻寿子(松陰の2番目の妹)が山口から見舞いに来たり、藩主からの御見舞いも届いた。
望東尼は長州藩から御客分として二人扶持を賜っており、これらは勤王の歌人で晋作の命の恩人であることの感謝のあらわれであろう。
望東尼は11月6日荒瀬宅で息を引き取り(写真参照:望東尼終焉の地)葬儀は、三田尻の正福寺(写真参照:正福寺)で行われ桑山に埋葬、毎年命日には大楽寺で、法要が営まれている。
明治26年望東尼に正五位が追贈されると、楫取が中心となり顕彰碑を兼ねたお墓を新設、裏面には自らの撰文が刻まれる。(写真参照:望東尼のお墓)
楫取は三田尻と縁が深く、討幕軍第1陣の参謀として出陣、三田尻宰判管事の任務、奇兵隊諸隊の反乱(脱退騒動)の鎮圧にあたるなどした。晩年は邸宅を構えて、後妻の美和子(松陰の4番目の妹で久坂玄瑞の未亡人)と過ごした。お墓は桑山大楽寺にある。
冬ごもり こらえてこらえて 一時に 花咲きみてる 春はくるらし
望東尼が亡くなる7時間前に詠んだものである。
望んでいた春(維新の夜明け)がやってくる、そんな喜びが表現されている。
(記述:吉本良太郎)