大専坊跡
来島又兵衛 遊撃軍の屯所
防府天満宮参道の石段を登ると左手に大専坊跡と書かれた山門がある。(写真参照:大専坊跡)防府天満宮には、9つほど社坊(神社の世話をする寺)が参道に設けられ、大専坊はこれらをとりまとめる別当であった。
明治元年の神仏分離令により全国の社坊が廃されたが大専坊は免れて現存している。
この大専坊は、毛利元就が大内義長を追放し防長二州を治めた時の参謀本部として使われ、幕末では長州藩が遊撃軍の屯所にするなど歴史上重要な史跡である。
元治元年、来島又兵衛は大専坊に陣を構え、遊撃軍(諸隊11、兵500人)を率いて京都に攻上ろうと準備を進めていた。前年の政変により京都から追放された長州藩の失地回復のため、武力を背景に嘆願しようというのである。
藩政府の中枢にいた晋作は、藩主世子の命により来島の進発を阻止するため大専坊を訪れ親書を渡して激論を交わした。
しかし来島は、脱藩してでも行く覚悟であり物別れに終わる。(写真参照:大専坊内部)
翌日は天満宮の春季例祭で、来島が出陣勝敗の吉凶を占うため相撲の興行を始めた。晋作には、藩の一大事を神事と称して相撲で決めるなどとても理解できなかった。この天神に対する信仰心の違いもあり「とても口にて論ずるは無益」とし京都で奔走する桂小五郎、久坂玄瑞と今後を相談するため、三田尻に隣接する富海浦から飛船(写真参照:飛船問屋大和屋政助の船蔵)で上京する。これが脱藩となり、晋作は京都から連れ戻され野山獄に幽閉される。
このことが晋作の命を救うことになり、藩の革命(回天義挙)、四境戦争での勝利そして明治維新・王政復古への足掛かりを築くことになったと言える。
富海飛船
幕末期は、多くの勤王の志士が富海飛船を利用して大阪へ往来した。例えば吉田松陰が江戸に遊学する際、晋作が福岡に亡命する際も利用しており、京都から追い落とされた七卿も兵庫から三田尻まで飛船を利用した記録が残っている。
(記述:吉本良太郎)