京都長州藩邸跡


桂小五郎像のある京都御池通り沿い(現京都ホテルオークラ)の周辺一帯は、江戸時代の長州藩邸跡である。高瀬川一の船入に接しその規模は南北2ヶ所に分かれ北側屋敷は間口39間(約70m)裏行き31間(56m)南側屋敷は間口30間(約50m)裏行き8間(14m)の広大なものだった。

幕末期の京都は公武合体論派や尊皇攘夷派の動きが活発で、京の長州藩邸は尊皇攘夷派の志士達の一大拠点となっていた。そこには、他藩を脱藩した尊皇攘夷派志士も多数身を寄せていたといわれる。

文久3年(1863)3月9日、江戸学習院御用掛から京都学習院転務を命じられた高杉晋作が京の藩邸に入る。
その2日後、孝明天皇が将軍徳川家茂を供に従え賀茂神社で攘夷祈願の為の御幸が執り行なわれた。その日、三条大橋近くでその様子を見物していた高杉晋作は行列の馬上の家茂に向けて「よっ!征夷大将軍!」と野次を飛ばす。前代未聞のこの無礼は、本来ならば捕らえられ何らかの刑に処せられても仕方がない所業である。だがこの時の将軍家茂は天皇の供である為、その家来達も勝手に行列を乱すわけにもいかず、高杉が捕らえられる事はなかった。その逸話は多くの小説に書かれているところである。
その翌年、元治元年(1864)7月19日に勃発した「禁門の変」で敗れた長州勢はこの藩邸を焼き払って京都を脱出。後に「どんどん焼け」と呼ばれたこの大火災は、800ヶ町、約2万7000戸を焼失させる大惨事となった。

(記述:奥重靖徳)

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