療養の地-桜山の東行庵-


どこでその病を得たのか・・・
慶応2年の四境戦争のさなか、戦闘の勝利が次々に晋作の元に報告されつつある頃、彼の身体は軍務に耐えられないような状態にあったようだ。
不調を初めて訴えたのは、小倉戦争の最中の7月22日であった。この時、白石正一郎が町医の石田精一を往診に招いている。
9月4日、「夜に入り血痰あり石田医師及軍病院よりも呼ぶ」と白石正一郎日記にある。決定的な病状。当時は死の病「結核」だった。
最初は白石邸で養生をしていた晋作だが、白石家の老人が重病ということもあり、晋作はおうのを連れて入江和作邸に移った。10月20日、全ての役職を解かれ、10月27日、奇兵隊士の眠る桜山招魂社近くに小さな家が完成し、移り住む。もともと野村望東尼のための家であったようだが、晋作の病状が進んだため療養の場となり、東行庵または捫虱所(もんしつしょ)と名付けた。ここでは、愛妾おうのと野村望東尼に看病され療養生活を送った。もちろん、石田ほか藩内の精鋭の蘭方医たちによる診療もあった。

ここで、慶応2年も暮れる。親思いの晋作は、萩の父へと書簡と歌を送っている。

 人は人吾は吾なり山の奥に 棲みてこそしれ世の浮き沈み

また一句は

 うぬ惚れで世は棲みにけり歳の暮

司馬遼太郎の『世に棲む日々』というタイトルはこれがヒントであろう。
自分は親不孝ばかりしてきたが、こうして国(長州)を守ったという自負を、父に対して誇らしげに、「うぬ惚れ」という言葉に込めている。

(記述:亀田真砂子 写真:吉岡一生)

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