東京・世田谷「松陰神社」


文久3年(1863)、高杉晋作は25歳の正月を迎えた。晋作の師松陰は、罪人の墓地である江戸小塚原に埋葬されていたが「松陰は志士であり、罪人ではない」が、長州藩のかねてからの主張であった。朝廷は幕府に対して、安政の大獄で処刑された人々は誤った政策による受難者であるから、犠牲者全員の名誉を回復すべきだという考えを示し、それに応じて幕府は罪を許すこととなった。
「松陰の墓を小塚原から他所に移したい」という申し出を断る理由が幕府にはなくなった。そうして1月5日、当時、長州藩の別邸があった若林村(現東京と世田谷区)に、松陰は改装されたのである。その地は現在の松陰神社であり、松陰の故郷である萩の松本村に似ていたといわれる。
晋作は、伊藤俊輔(博文)、山尾庸三らと共に、松陰の遺骨を掘り出した。松陰が処刑されて、すでに3年余りの歳月が流れていた。

『留魂録』

処刑を前にした松陰が遺志を門人に残すべく安政6年(1859)10月25日から書きはじめ、26日夕方書き終えたもの全文およそ5千字からなる。牢内万一を慮って二部作成、一部は早い機会に在江戸門人らの手に渡り萩に送られて11月下旬には父・兄たちもこれを読むことができた。しかし、いかなる事情あってか間もなく所在不明となり、関係者の深く悲しむところとなっていた。
ところが今一部は、同囚の牢名主沼崎に預け、門人らに届けるよう遺託していたのであった。
沼崎はもと福島藩士、殺人の嫌疑を受けて在獄五年、下田事件入獄の際もすでに在獄していて松陰を知っていた。安政6年(1859)7月再度松陰が投獄されたときすでに三宅島遠島の判決を受けていて10月出帆予定となっていた。沼崎は「留魂録」を隠し持って渡島、明治7年(1874)に赦されて東京に戻り、門人と知った野村靖に手渡したのである。
関係者のよろこびはいかばかりであったろうか。かくして「留魂録」は萩・松陰神社の神宝として、松陰畢生の気概を今に伝えているのである。
思うに沼崎は、必ずしも廉直ならざる人物であったろう。野村と面会後の事績も杳として不明である。しかしその沼崎にとっても、松陰の遺託は一命を賭して受け止め、在島15年に及ぶ苦しい日々これを守り抜かざるを得ぬ重いものだった。
学問・思想・人間の真価が完全に一致した稀有の人物松陰吉田寅次郎、かつてペリーも、野山獄囚人、獄卒も松陰の志気に打たれ、凡ならざる行動にかりたてられた。
世田谷区若林の松陰神社裏手の小さな墓は何も語らないが、「留魂録」の今なお存在するのも決して偶然ではなかったのである。

冒頭有名な

 身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

吉田松陰の志に触れたいと思う人々が今なお多く参拝する。
それは100年後も変わらぬ光景であろう。
近年は学問の神様として崇敬を集めている。
毎年10月の最終土曜日と日曜日には「萩・世田谷 幕末維新祭り」を開催。

(記述:内田祥文)

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