御殿山

英国公使館焼き打ち事件

文久2年12月12日(1863年1月31日)江戸品川御殿山で建設中の「英国公使館」が焼打ちされた。

その場所は、現代の京浜国道15号線沿い、品川神社と「品川女子学院」の間辺りである。ここは江戸時代に桜の名所として知られた「御殿山」の一画にある。土蔵相模のあった近くに現在の「品川女子学院」があり、その横の御殿山通りに入る「北品川」に「英国公使館建設地」があった。
当時 英国公使館は「品川神社」(北品川稲荷社)の北側 に位置し、「周囲に深い空堀と背の高い柵をめぐらし、跳橋を設けるなど、攘夷派の襲撃に備えた構造であった」と資料には書かれている。その敷地面積は、11,857坪 もあったといわれ、この一帯がほぼ公使館跡だったと思われる。ちなみに東京ドームが約14,000坪であるから、かなりの面積といえよう。
御殿山というサインの入った写真は、品川神社にある北側、高台にある「阿那神社」から御殿山を見下ろしたもの。江戸の庶民に愛されていた花見の名所だったというが、今はマンションなどが多く立ち並ぶ景色となった。

英国公使ラザフォード・オールコックは他の公使とともに徳川幕府に公使館建物の建設を依頼し、建設費の十分の一の年賃貸料で借りることで合意。オールコックが簡単なスケッチ図を提供し、それをもとに幕府作事方が文久2年春に建設を開始。12月には建物はほぼ完成し、翌年にイギリス公使館として用いられることになっていた。
しかし長州藩士「高杉晋作」御一統による焼討ちにより全焼し、オールコックは政情不安な江戸ではなく公使館を横浜に置くことにした。

(記述:山下正樹)

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