丸山の料亭・花月


文久2年(1862)1月2日、高杉晋作は上海行きを藩より命じられ長崎に向かった。到着後、長崎の客舎にて、国(藩)の役に立ちたいと父あての手紙を書いている。
この時、4月29日に千歳丸が長崎港を出発するまでの約100日、暇をもてあました晋作は、丸山の料亭花月で派手に遊んだ。晋作の懐には長州藩より支給された500両があった。

料亭「花月」について

花月は寛永19年(1642)に創立した遊女屋引田屋(ひけたや)の庭園内に文政元年(1818)の頃造られた茶屋の名称である。大正末年、引田屋は廃業したが、花月の名称と引田屋の庭園、建物は現在に伝承され、昭和35年(1960)には長崎県の史跡に指定され、全国的に珍しい史跡料亭となった。

花街丸山には江戸から幕末、明治と長崎で活躍した国際人の社交場であり文人墨客も数多く訪れたが、花月も例にもれず。坂本龍馬がつけた刀傷の跡が床柱に残る「竜の間」や、タイル貼りの床に和風の天井、中国の様式を取り入れた窓を使用した日本で最初の洋間「春雨の間」。また、なかにし礼原作『長崎ぶらぶら節』で有名となった名妓・愛八直筆の歌本や写真、坂本龍馬直筆の書などを展示する集古館など、花月の歴史を物語る見どころも数多くある。各部屋から見渡せる元禄時代に造られた庭園も素晴らしい。

(記述:原田哲也)

出典:月刊「高杉晋作」ザ・メディアジョン他

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