団子岩(吉田松陰の墓及び墓所)


「松下村塾」を主宰した「吉田松陰」とその家族、門下生が眠る吉田松陰の墓は、吉田松陰誕生地に隣接し「団子岩」とよばれる小高い場所で萩の町を見下ろせる場所に建っている。 吉田松陰の没後100ヵ日にあたる1860年(万延元年)2月7日に生家の杉家では百ヵ忌を営み、護国山団子岩の吉田家墓地に家族や親戚、高杉晋作、久坂玄瑞ら門下生が出席し、故人の霊を弔い遺髪を埋葬した。 そして同月15日に松陰の墓碑を建立される。

表には「松陰二十一回猛士墓」、裏には「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれている。 墓前の水盤や花立は、高杉晋作や久坂玄瑞、入江九一、前原一誠ら門人達の名前入りで寄進されたものである。 また同じ敷地に墓が多く見られるが、それは松陰の父「杉百合之助」や兄の「杉民治」、叔父の「玉木文之進」、義弟となった「久坂玄瑞」ら一族の墓のほかに高杉晋作、吉田稔麿のものだ。

高杉晋作の墓には高杉晋作の胎毛と臍の緒が埋葬されている。 団子岩の墓所の入口に「高杉晋作草庵跡地顕彰碑」がある。これは、 1863年(文久3年)3月に10年間の暇を許され京都で剃髪し東行と号した高杉晋作が4月に帰萩し、団子岩の麓に草庵を結んだという記念碑である。 師である吉田松陰の誕生地であり墓所の近くで吉田松陰の遺著を読み、妻の雅と一緒に過ごしたと言われている。 正確な位置はここではないとされるが、師が眠る団子岩のそばに晋作が実際に過ごしたと思うと、胸が熱くなる。(記述:槇垰 賀之)

二十一回猛士(松陰)の墓

高杉暢夫の墓

晋作の草庵趾の顕彰碑

前の記事

野山獄

次の記事

松下村塾