土蔵相模
江戸にいる晋作やその仲間たちが頻繁に訪れた「土蔵相模」。
今は、旧東海道品川宿(現北品川本通り商店街)の中にある 「土蔵相模跡」 (どぞうさがみあと)という史跡が残る。
土蔵相模とは、幕末、明治にかけて存在した「相模屋」という妓楼、すなわち遊郭である。本来の名称は単に「相模屋」だが、土蔵造り(なまこ塀)に覆われた建物であったため、「土蔵相模」が通称となった。
この妓楼「土蔵相模」は、長州藩志士たちのたまり場、隠れ家であった。顔ぶれには高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔、井上聞多などの志士が有名だが、彼らが江戸の街で攘夷、討幕に向けた活動を行う拠点が、まさにこの土蔵相模だった。
とくに有名なエピソードが、文久2年12月12日(グレゴリオ暦1863年1月31日)の夜のこと。彼らは土蔵相模に集結し、ここから幕府が建設していた「英国公使館」へ焼き討ちに向かったのだった。
首謀者は高杉晋作。彼は上海への留学経験があり大国の清が、西洋列強に蹂躙されている様子を目の当たりにして、日本もまた同じように侵略されるのではないかと危機感を持った。おそらく西洋列強に対する幕府の弱越しと、「日本男児」ここにあり!を見せつける為の彼らなりの示威行動だった。ちなみに同じ年の8月には「生麦事件」が起きているので、薩摩藩に遅れをとってはいけないと言う焦りもあったのかもしれない。
先に攘夷断行を幕府に促す勅使一行が江戸滞在中の11月31日、高杉晋作らは横浜襲撃を計画していた。しかしそれを事前に知った長州藩世子・毛利定広の説得で中止になった経緯がある。その勅使らが江戸を離れた後に間髪をいれず「待ってました」とばかりに英国公使館へ夜討ちを決行した。
この土蔵相模跡から英国公使館の建設地まで歩いてみると、土蔵相模を背に100メートル程で京急本線の踏切がある。それを渡ると直ぐに京浜15号線国道があり左前方に「品川女子学院」が見える。この品川女子学院と50~60メートル離れた並びに品川神社があるが、その間に「英国公使館建設地」があったと言われている。
土蔵相模から早足で歩いて5分ほどなので、隠れ家からかなり近くだったと解る。気勢を上げる為に飲んだ酒の勢いもあり、みんなほっかぶりをしながら闇に紛れて「行け!行け!」だったのだろう。
隊長:高杉晋作
副将:久坂玄瑞
火付け役:井上馨、伊藤博文、寺島忠三郎
護衛役:品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵
斬捨役:赤根武人、白井小助、山尾庸三
ちなみに「英国公使館」は建設途中の建物であり、しかも深夜の決行だったため、死傷者を出さずに焼き討ちは成功した。妓楼に戻り、天高く燃え上がる炎を土蔵相模から眺め、祝杯をあげただろう晋作たち。かたや、品川宿のすぐ目の前の焼討ち事件で宿場辺りは大変な騒動であったろうと想像できる。
(記述:山下正樹)