桂小五郎は、松下村塾門下生ではないが、明倫館において吉田松陰とは師弟関係にあった。高杉晋作ら、村塾生の兄貴分として、皆から慕われている。1862年、航海遠略策を唱えた長井雅楽の暗殺を実行しようとした高杉を説得、上海視察に向わせる。1864年、来島又兵衛の説得に失敗して高杉が脱藩して京都に行った時も、高杉を無事に萩へ戻らせる。幕長戦争の際に、形勢不利だった大島口に高杉を向わせるなど、桂と高杉は互いに信頼関係で深く繋がっていた。
井上聞多の聞多(ぶんた)は、毛利敬親から拝領した名前。毛利元就以前から毛利家に仕えた名門の家で、毛利敬親の江戸参勤に従い下向したり、世子(のちの元徳)の小姓などを務める。彼は松下村塾には行っていないが、尊王攘夷運動に共鳴。高杉や久坂らとともに、イギリス公使館焼き討ちに参加するなど過激な行動を実践する。文久3年(1863)には、長州ファイブの一員として、イギリスに渡るが、翌年下関戦争では伊藤とともに急遽帰国して、和平交渉に尽力した。第二次長州征伐の前には、高杉の命を受けて伊藤とともに長崎へ行き、グラバーから武器を購入。幕長戦争では芸州口で戦い、幕府に勝利。広沢真臣とともに、幕府の代表勝海舟と休戦協定を結ぶ。
幼くして萩に移り,17歳の時に松下村塾に入る。松陰が「周旋家になりそうな」と述べたのは有名。桂小五郎や高杉晋作に従い、尊王攘夷運動に参加した。23歳の時に、長州ファイブの一員として英国に留学。しかし、下関に英米仏蘭の四国連合艦隊が攘夷戦争の報復に来ると知り、1年経たずして井上聞多と急遽帰国した。敗戦の講和談判の際には、井上と共に長州側の通訳として高杉に同席。功山寺決起の際には、力士隊を率いて参戦。幕長戦争に際しては、長崎に武器調達に行くなど、倒幕に奔走した。東行庵には「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」の名文句で始まる高杉東行碑銘文がある。常に晋作と死線を共にした伊藤博文の力作で、晋作の生涯と功績がまとめられている。
佐世八十郎(前原一誠)は長州藩士・佐世彦七(大組47石)の長男として生まれる。同じ武士として、高杉が心を許せる数少ない友人の一人であった。功山寺の七卿御用掛、その後は高杉らと功山寺決起、藩権力を奪取し、また小倉戦争では参謀心得として参戦、高杉が病気で第一線を退いた後には高杉の替わりとして参謀を務める。エピソードとして、生涯「困った」を言わない高杉と言われているが、無断で軍艦を購入して帰藩した際に、藩上層部から「何様のつもりだ!」と大変風当たりが強くさすがの高杉も参った。その時に、佐世に泣きの長文の手紙を送っている。「早く戻ってきて、相談に乗ってほしい」という内容である。
文久3年(1863)3月、将軍家茂が上洛して、政局の中心は江戸から京都へと移った。この時期、高杉は何かを起こそうとしていた。「入江九一、高杉晋作、堀真五郎の3名による血盟書」が現存する。晋作は、「初めに予、憤激するところあり、血盟して事を興さんと欲す。諸同志遅義多し」と記している。高杉は何か重大な行動を起こそうと計画したが、同志の反対で中止したことがわかる。血盟に参加したのは入江だけであった。京都で尊王攘夷の活動を行う一方、下関では奇兵隊創設にも協力し、奇兵隊の参謀となる。下関戦争では久坂玄瑞率いる光明寺党の一員となる。元治元年、京都・禁門の変で死去。
松下村塾で、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一と並び四天王と称せられる。その秀才ぶりは村塾でも有数のものであった。高杉との逸話に関しては、ある日戯れに、放れ牛の絵を描きそれに烏帽子と木刀に棒切れを添えた。山縣有朋が「それは何か」と尋ねると、稔麿は「高杉は俗事にこだわらない俊才で、誰も繋ぎ止める事はできない、放れ牛だ。久坂玄瑞は雰囲気が立派なもので、烏帽子を被らせ大きな屋敷に座らせれば絵になるだろう。入江九一は少々劣るところもあるが、まぁ、木刀くらいのものである。斬ることはできないが、脅しには使える」と言った。有朋は、残りの棒切れは何かを尋ねた。稔麿は「それはお前だ、凡庸で何の取り柄もない」と答えたと言われる。元治元年6月5日、新撰組との闘争となった池田屋事変で、命を落とす。
藩校明倫館に学び、14歳の時に松下村塾に入る。尊王攘夷運動に参加し、禁門の変に奮戦したが、敗れて帰国。のちに大田絵堂の戦いにも参加。そして慶応2年の「四境戦争」では、高杉と共に丙寅丸に乗り込み、大島口の戦いに参戦。砲隊長に任命され幕府軍艦を奇襲している。そのまま芸州口の戦いに転戦し、「御楯隊」の司令官として戦果を挙げた。
足軽の家生まれで、15歳で松下村塾に入る。尊王攘夷運動に奔走し、高杉晋作のイギリス公使館焼き討ちや禁門の変にも参加している。学識の深さはないが、人情に厚いと松陰に評されている。前原一誠が萩の乱を起こす前に最後の説得をしたのも品川と言われている。戊辰戦争のときに、新政府軍が軍歌として唄った「トンヤレ節」の作詞者として知られている。また松陰の遺志を継ぎ「勤王の志士を祀り、その肖像や遺墨などが保存される」尊攘堂を建造。現在は京都大学構内にある。また功山寺にある尊攘堂も、品川から桂弥一に託されたものである。
松下村塾では、高杉と共に双璧と並び称されるほど優秀な人物であった。文久3年、奇兵隊の前身となる光明寺党を結成し、関門海峡を航行する外国船を撃ち払う攘夷戦を実行する。翌年、四国連合艦隊が報復に来襲した時には、京都で政治活動を行っていた。朝廷工作を行うが、8月18日の政変が起き、七卿と共に長州に下野する。その後、真木和泉や来島又兵衛らと共に京都進発をするが、蛤御門の変が起き寺島忠三郎と共に刺し違えて自刃。高杉とは、御殿山の英国公使館焼き討ち、また小塚原に埋葬されていた師・吉田松陰の遺骸を若林(現・世田谷松陰神社)に改葬するなど行動を共にした。
久坂玄瑞の紹介で松下村塾に入門。松陰から多大な影響を受け、終生深く畏敬していた。生涯「松陰先生門下生 山縣有朋」と言い続けていたのは有名な話である。教法寺事件で奇兵隊総督を罷免された高杉に代わり奇兵隊軍監としてリーダーとなる。しかし功山寺決起の際の高杉の呼びかけには応じることなく、あくまで慎重派路線を貫いた。その後高杉の決起が成功すると彼に合流し、大田絵堂の戦いでは萩政府軍を相手に死力を尽くして戦い、勝利をもたらした功績は大きい。
福田侠平が奇兵隊に入隊したのは35歳と、他の隊士よりかなり年長であった。しかし、思慮深い福田は人物的にも高杉から信頼され、慶応元年8月より軍監を務めた。功山寺決起の際に、馬を進めようとする高杉の前に立ちはだかり、止めようとしたのが福田である。大の酒豪で、戦闘中も酒を常に携えていた。死因も酒によるものだと言われている。10歳も年下の高杉に心酔していた福田は、自分の死後「高杉の墓の横に埋葬してほしい」と言っており、その遺言通り東行庵で高杉の側に眠っている。
清末藩の廻船問屋だった白石正一郎は、坂本龍馬、平野國臣、真木和泉など全国の志士、また七卿など幕末に活躍した500人にものぼる人たちの世話をしたと言われる。その中で彼が一番惚れ込んだのが高杉晋作であった。文久3年6月8日、白石邸を訪ねた高杉と奇兵隊結成をして自らも弟・廉作と共に入隊する。その後は高杉を物心両面で支え続け、それはやがて家業を傾かせることになるが、その苦しみさえ表に出さなかった。高杉の死後、正一郎は急激に衰え、一切の俗事から遠ざかり、最後は赤間神宮の初代宮司という肩書をもって生涯を終える。
下関西ノ端の大年寄で、奈良屋という酢の醸造業を営んでいた。奇兵隊結成後、白石と同様晋作に対し物心両面から支えたスポンサーでもあった。功山寺決起の際には、3、4万両の軍資金を出したと言われる。また高杉とおうのが四国に亡命する際には旅費を与えたり、望東尼が姫島から救出された後、白石邸から入江邸に移り、手厚く保護されている。しかし、維新のあおりを受けて家業は没落。今は西ノ端に小さな碑が残るのみである。
慶応元年(1865)3月、藩の保守派を一掃した藩内抗争の後、突然イギリスへの密航を計画する。伊藤俊輔を誘ってグラバーに渡航の相談をしに長崎へ行くのである。しかし、グラバーから「今イギリスに行くより、馬関を開港して富国強兵に務め、幕府戦に備えるべきではないか」と諭される。またその翌年の慶応2年に、武器の購入のために再度グラバーに会いにいく。その時は、英国製の蒸気船「オテントー」丸を独断で購入する。その船は「丙寅丸」と改称され、幕長戦争で大活躍をするのである。
筑前(福岡)藩で有名な勤王の女流歌人であった。彼女が住む平尾山荘には多くの勤王の志士達が行き来し、彼女に庇護を求めた。次第に政治に興味を持つようになった望東尼は元治元年(1864)筑前に亡命してきた高杉を匿う。わずか10日間の滞在の後に、高杉は自分が不在の長州の実情を知って下関に戻ることを決める。高杉を匿ったことでその罪を問われ、望東尼は糸島沖の姫島に遠島となるが、それを知った高杉は救出部隊を整え、無事島抜けを成功させる。下関に迎えられた望東尼は、すでに重篤な病に冒されていた高杉を死ぬまで看病し、その後自らも長州でその生涯を終えた。
日柳燕石は四国・讃岐の榎井村の豪商・加島屋に生まれた。優れた詩人でもあり、生涯漢詩を作り続けた。5000首以上の完成稿があり、それは乃木希典や山本五十六が彼の漢詩を好んだことでも有名。30歳前後、燕石自身の放蕩な生活から加島屋の身代を食い潰してしまい、生活の糧として賭場の経営をする。ただ、自身が賭博をすることはなかったようである。また尊王攘夷思想があり、全国から勤王の志士たちが燕石の元を訪れているが、桂小五郎や高杉晋作を匿ったことで有名である。晋作は馬関開港の批判を受け、難を逃れておうのと共に讃岐に潜伏した。その間、約1ヶ月。燕石はその後、晋作を匿った罪で高松藩の獄に繋がれた。
林家は堺から出てきて造り酒屋を営んだ。算九郎自身は宇部の出身で、林家に養子に入った。そして、白石正一郎の息子・東一郎に林家の次女タネが嫁いだ関係で、林家と白石家は親戚となった。高杉は白石家で療養をしていたが、人の出入りが多い白石家ではゆっくり養生もできないという理由から、桜山下の東行庵に移る。しかし、そこはすきま風の吹く祖末な家だったので、慶応3年3月に近くの新地の林家に移る。ここの離れが、高杉晋作終焉の地となった。
坂本龍馬は土佐の郷士として生まれる。高杉晋作との初めての接点は文久2年の武市瑞山(武市半平太)とともに川崎宿の「萬年屋」で久坂玄瑞と高杉と会飲した時か(久坂玄瑞の日記より)慶応2年の小倉口の戦いに於いては、龍馬は乙丑丸に乗り帆船の庚申丸を曳航して、門司浦に向う。これが高杉と坂本が共闘した最初で最後の機会だった。またその年の12月に薩長同盟締結へ向けた準備のために下関入りした龍馬は、高杉からピストルを贈られている。京都伏見の寺田屋で襲われたとき、龍馬の一命を救ったのがこのピストルだったと伝えられる。
薩摩藩記録奉行の父の元に、天保6年に生まれる。晋作より4歳年上である。文久2年の上海視察の際に、千歳丸の中で二人は出会った。これより以前に上海に渡り、蒸気船一隻購入するなど、当時としては優れた国際感覚の持ち主だった五代とはかなり気が合ったようである。上海から帰国してからの二人はそれぞれであったが、慶応2年4月、長崎の薩摩藩邸で二人は会っている。その時に五代から渡された名刺大の写真が晋作の遺品にある。またその年の10月、下関に来た際に、五代は晋作を見舞っているようで、薩摩藩の桂久武にあてた手紙に、「高杉も此の内より病気にて至極難症に相見え、同人相欠け候はば、馬関にも外に人物今これ無く」と慨嘆する程、五代は晋作を高く評価していた。
筑前勤王党のメンバ−として、また藩主・黒田長溥の命をうけて、幕府と長州の間の和平工作に奔走する。高杉の筑前亡命を助け、月形家の家宝である中国の歴史書『資治通鑑』を売り払い軍資金として高杉に渡したとも伝えられる。高杉の功山寺決起後、長州が倒幕藩になったことで筑前藩にも禍いが及ぶのを恐れた藩主により、処刑される(乙丑の獄)。それを聞いた高杉はおおいに慨嘆したと伝わる。
松下村塾で高杉が松陰に学んだのは1年満たないほどであった。松陰は双璧と言われる久坂玄瑞と高杉を互いに切磋琢磨させながらも、「暢夫(晋作)の識を以て、玄瑞の才を行ふ」といい、二人が力をあわせれば不可能なことは何もないと延べている。学問は功業のためでなく、忠義という一身の生き方に関わるものだ、また志に身分の差はないという薫陶は高杉に大きな影響を与える。松陰が処刑された後、江戸の周布政之助に送った書簡に高杉はこう言う。「実に私共も師弟の交わりを結び候程の事ゆえ、仇を報い候はで安心仕らず候」この言葉通り、その後の高杉は倒幕へと突き進むことになる。
肥後藩士。保守的な肥後藩の中で開明派であった横井小楠は、地元では受け入れてもらえず、福井の松平春嶽に招聘されて、福井の改革や幕政改革などに大きな功績を遺した。吉田松陰の紹介もあり、高杉晋作は東北遊学の際に、福井に小楠を訪ねている。その時の印象を「横井、なかなかの英物、一ありて二なしの士と存じ奉り候」。翌年に明倫館勤務を兼ねて、世子定広の小姓役という出世を果たした高杉は、横井小楠を学頭兼兵制相談役として、長州藩に招聘したいという意見を述べている。しかし、それは実現することはなかった。
高杉が「試撃行」の旅を始めた時に、一番最初に訪ねたのが笠間藩の加藤有隣であった。水戸学儒学、神道、雅楽、兵学、砲術とあらゆる学問を修めて笠間藩の藩政改革を実行しようとしたものの挫折。40歳で隠居の身となり、私塾を開いていた。日本中から集ってきた志士達と交流していたが、高杉とはかなり気が合ったようで、二晩も大いに語り合った。高杉が師・松陰に倣い脱藩して国事に奔走するのだと藩邸を飛び出した際に、向った先が加藤有隣の元であった。しかし、有隣は江戸に戻るよう説得したという。桂小五郎に手紙を書き、脱藩の罪にならないようにも働きかけた。
江戸麻布屋敷に誕生した毛利敬親(幼名:猷之進)は前藩主の急逝などもあり、弱冠18歳で毛利家13代藩主となる。敬親の藩治の要諦は、まず財政難の立て直しであった。村田清風ら財務に精通した家臣を採用し、自らも質素倹約を励行し、藩財政を立て直す。また江戸桜田藩邸に「有備館」を完成させ、萩には「明倫館」の充実・増改築を行い,文武両道を問わず武者修行を希望する藩士たち5〜10人を対象に、公費をもって藩外へ出した。第一期生には、吉田松陰や小田村伊之助がおり、江戸で学問に励んだ。また農民の米作に関わる労苦を自ら体験することを思い立ち、萩城内に水田を開き自ら田植えや稲刈りをおこなったという逸話が残る。農民や弱者に対しても常に配慮をする民政をおこなっていたので、人民からも厚い信頼を得ていた。当時、「脱藩」は捕えられたら処刑であったが、5回も脱藩をした高杉が常に守られたのも、この英明な藩主の配慮があったからであろう。世間で揶揄される「そうせい公」では決してない。高杉のみに限らず、毛利敬親の人材登用は優れていた。幕末維新期の回天事業に活躍し、維新後に長州出身者が各界で十二分に実力発揮した人員が存在したことは、敬親の力であったと言っても過言ではない。
12歳の時に、毛利家支藩の徳山藩から敬親の養子として宗家に入家。世子となり、長府藩姫であった毛利安子(銀姫)と結婚。幕末動乱期に義父・敬親をよく助け、維新回天に力を注ぐ。高杉晋作は23歳の時に藩世子毛利定広の小姓役となり、以来藩政に関与するようになる。しかしその後、高杉は久坂玄瑞、赤根武人等と共に横浜の外人襲撃を計画する。それを聞きつけた元徳の出馬によって、未然にくい止められた。高杉に対する信頼は極めて厚く、それは最後まで変わらなかった。また元徳自身も正室・安子の実家である長府毛利家、岩国の吉川家と新たな「毛利家三矢の結束」の長として幕末動乱を乗り切った。
吉田松陰の理解者でもあり、高杉晋作のよき理解者として、若手志士からの信望が厚かった。村田清風の志を受けて藩財政の立て直しに尽力したが、保守派の反対のため辞職をする。その後も長井雅楽の航海遠略策を阻止しようとしたが失敗。逼塞を命じられたり、前土佐藩主・山内容堂を誹謗して謹慎となり、麻田公輔と変名した。酒に酔って馬でのりつけるという大罪を犯しながら野山獄に入牢中の晋作を励ましたことは、有名。蛤御門の変以降、諸々の状況に責任を感じ、自殺。