周防大島
幕長戦争・大島口の戦いの戦場
高杉晋作の電撃的大島出撃が、四境戦争における長州軍快進撃に勢いをつけた。
慶應2年(1866)6月13日の未明、丙寅丸(へいいんまる)は大島を目指して遠崎を出港した。
幕府海軍による周防大島への砲撃は6月7日から始まったが、その攻撃目標は安下庄村(大島南部集落)と久賀村(北東部集落)に集中した。
久賀村の大洲鉄然(僧侶)は、幕府艦隊の砲撃により民家が焼かれ領民が犠牲になっている事を山口の政事堂に急行し報告。この報に政事堂は、当初の方針「大村の大島放棄論」を撤回し第二奇兵隊と浩武隊に大島への出兵を命じ、一方で三田尻港から小倉口に向かうべく丙寅丸に乗船していた高杉晋作にも大島への援軍を要請した。
丙寅丸はゆるゆると大島の久賀沖を目指す。砲術長は山田市之允(顕義)、田中顕助(光顕)が機関長だ。椋野を過ぎ、うっすらと明るくなったところで長浦を回り込むと、いきなり幕府艦隊が浮かび上がった。
「ちょうど、ええ」 船首に仁王立ちの高杉は扇子で前方を指し躊躇なく突撃を命じた。
「撃てぇ市之允!」と高杉が命じると同時に、丙寅丸の砲門が開き砲撃が始まった。
幸いにも四隻の幕府軍艦(翔鶴・八雲・大江丸・旭日丸)は錨を下ろし蒸気機関の火も落とし、兵は就寝中だった。
至近距離からの山田の砲は命中を続け、小銃を持った藩兵も面白いように撃ちまくる。
不意を突かれた幕府海軍船が蒸気を炊きはじめ発砲を開始すると、高杉は悠々と下関への回航を命じた。
もしかすると、この奇襲攻撃は薩摩海軍の裏切りではないかと恐れを抱いた幕府海軍は久賀沖から撤退。
一方の長州軍は幕府海軍が撤退した隙に乗じる。世良修蔵が率いる大島兵や第二奇兵隊・浩武隊らが連携して大島奪回作戦を展開。6日後の6月19日には幕府軍を大島から追い払った。
14日には芸州口。17日には石州口と小倉口でも戦闘が開始され、まさに四境戦争が始まっていたのだが「大島口の勝利」の報が各戦線を戦う長州藩兵に大きな勇気を与えたことだろう。
(記述:湯川一平)