高杉東行終焉の地
翌年慶応3年(1867)3月、正妻のマサが看病のために萩から訪れることになり、桜山の東行庵から新地の林算九郎邸の離れに移る。林は、白石正一郎の親戚筋にあたる大庄屋だった。本当の林邸は、ここから数十メートル離れたところにあったようだ。
小倉城落城の頃から、病状の進んだ晋作は起き上がれなくなった。
皆の必死の願いも空しく、4月13日深夜、一代の風雲児はこの世を去った。享年29歳(満27歳8ヶ月)という短い生涯であった。
命日は4月14日。今でも、命日の日は新地の地元の方々が法要を営み、奉納の詩吟や舞などが披露される。
武家の妻として威儀を正してきたマサは7年の結婚生活であったが、晋作と暮らしたのはわずか1年あまりだった。最期をここで共にした彼女は、どのような思いであっただろう。
古い写真は、高杉晋作13回忌の時にここで撮られたもの。男性は、晋作の孫の春太郎、続いて東一の妻。その横は林算九郎夫人と伝えられている。
新しい写真は、2016年高杉晋作150回忌の年に、白石正一郎ご子孫の白石明氏により整備されてすぐのもの。白石さんは現在までも高杉にとって恩人であるようだ。
(記述:亀田真砂子 写真:吉岡一生)