晋作入筑の地 上鰯町と柳町遊郭界隈
高杉晋作 博多に上陸
長州藩では俗論派が台頭し命を狙われていた晋作だが、九州逃亡を図る。福岡藩の脱藩浪士・中村円太、白石正一郎の実弟・大庭伝七らとともに海を渡り、対馬藩領の港(現在の博多区対馬小路辺り)から上陸したとされるのが元治元年11月4日。
最初に、上鰯町(現:福岡市博多区須崎町)の対州問屋の石蔵卯平に迎えられる。今でも計量器を扱う石蔵商店として那珂川沿いに店がある。晋作が上陸したであろう石段が、石蔵商店も前の川面より道路に向かって今も残っている。ここで筑前勤皇党の月形潜蔵と会い、九州諸藩を統合するため肥前田代(現佐賀県鳥栖市)へ向かう。だが、その計画は失敗に終わった。
その失意の晋作を匿ってもらうため、中村円太が野村望東尼の山荘(平尾山荘)へ連れていく。そこで10日間滞在した後に山荘を出て、再度博多の町へ潜伏することとなった。
現在の石堂橋あたりに、当時は関所があった。その関所の向こう側にある水茶屋若松屋で、軍資金を持って現れるはずの月形潜蔵を待つ晋作。待てど暮らせど、いっこうに月形は現れず。ついにしびれをきらした晋作は、若松屋の使用人の半纏をまとい幼子を背負い、若松屋の提灯に先導され、石堂橋を渡る。遊郭に集金に行くような風情で関所の門番を欺き、柳橋の梅ヶ枝屋に繰り込んだ。関所破りである。
その後、晋作は長州へ戻り、翌月12月に功山寺決起を果たす。功山寺決起へつながる過程としての拠点、今でも福岡市にその足跡を見ることができる。そこは博多祇園山笠で賑わう地区でもあり、7月に訪れるとオイサ、オイサの掛け声とともに水法被姿の男衆に出会うエリアでもある。
(記述:高木あづみ)