馬関越荷方役所跡

晋作はここの役人も務めた

幕末当時は、この辺りは北前船の寄港地として大変なにぎわいだったようだ。
積荷は、北から運ばれてくる昆布、数の子など。しかし、その繁栄する港や問屋街が支藩である長府藩の領地であったため、萩本藩ではすでに萩藩領の一部であった下関の今浦の地先に注目。この今浦と伊崎の間の入海を埋め立てる。これが「新地」であり、これが本藩の下関港進出の拠点となった。萩本藩は新地の港湾を整備し、ここに新地会所や密貿易監視の八幡改方(ばはんあらためがた)など出先機関を集め、やがて越荷方役所の設置となる。越荷とは、北越方面から廻送する荷という意味である。運搬された荷物を担保に保管・金融業及び販売を行い、藩は莫大な利益をあげた。長州藩の隠し財産「撫育資金」をさらに稼ぎ出したところでもあるようだ。
はじめは新地にあった役所が、やがてこの南部(なべ)町に移転した。南部町一帯は、その繁栄ぶりを表す多くの倉庫が立ち並んでいたという。

11月17日慶応元年(1865)、晋作は馬関越荷方頭人となる。それは、長州藩の財政と兵糧を確保する最大の機関の責任者であった。萩の妻子が藩の許可を得て下関に引っ越してくることを見ても、この任務が一時的なものではなかったであろうことは明らかである。
そのようなドル箱ともいうべき長府藩領の下関を、全面的に萩本藩の直轄地にしようとする「馬関替地論」を唱えた高杉晋作らが長府藩士から命を狙われて、愛人おうのとともに四国へ亡命するという事件が起きた。

幕末に長州藩が倒幕の先頭に立って果敢な行動を展開できたのも、この撫育方の財源、ひいては下関港経営の成功があったからだと言えよう。

(記述:亀田真砂子)

出展:「下関その歴史を訪ねて」清永唯夫著

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