移築された白石邸の浜門
下関竹崎の海は、西に日本海、東に瀬戸内海に続き、北前船の寄港地としてにぎわっていた。庄屋の格式、回船業の商いをしていた白石家は卯兵衛、正一郎父子の時代に最盛期を迎えて巨大な富を築いており、敷地の一角の浜門が海に面して開かれていた。
当時の下関港は、都と九州を結ぶ交通の要衝でもあった。白石正一郎日記摘要によると、出入りした人々はおよそ千五百人。このうち、志士と呼ばれる人が四百余人もいた。それも幕末、維新史を彩る西郷隆盛、坂本龍馬、平野国臣、梅田雲浜、真木和泉らと枚挙にいとまない。また中山忠光卿や都から逃れてきた七卿なども白石の世話になっている。だが、正一郎の人生掉尾を運命づけたのはなんと言っても高杉晋作であった。心底高杉に惚れ込み、彼の最期まで物心両面を支えた。
全国の攘夷派の志士達は白石を頼り、この浜門をくぐって国事に奔走した。現在は長府松小田本町の静かな小道に面して、この白石家の浜門が移築されて現存している。
(記述:谷田正彦)