白石正一郎邸-奇兵隊創設の地-
白石正一郎は文化9年(1812)、馬関の荷受問屋小倉屋の長男として生まれた。鈴木重胤から42歳の時に平田国学を学び、薩長交易の開拓にも熱心であった。尊王思想に傾倒して以降、勤王の志士たちを損得抜きで支援し、西日本における尊攘運動の拠点となった。「白石正一郎日記中摘要」によると、その人数はざっと400人にも及び久坂玄瑞、桂小五郎、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、坂本龍馬、中岡慎太郎、真木和泉、平野国臣、中山忠光、三条実美、野村望東尼など藩内外の多数の志士たちを支援し続けた維新の陰の立役者である。
正一郎宅跡は高杉晋作奇兵隊結成の地碑と並んで、下関市竹崎町の中国電力下関支社地の一画にある。
文久3年(1865)6月、外国船砲撃後の報復攻撃で藩の脆弱な防備の回復を藩主毛利敬親より一任された晋作は、藩が主導するのではなく、身分に関係なく、まったく新しい組織と運営方法をとらなければならないとの考えを投じ、52歳の正一郎に奇兵隊設立の援助を打診すべく正一郎宅を訪ねた。正一郎は、自分の歳の半分にも達しない晋作の容易ならざる人物を見抜いて快諾。6月8日奇兵隊を当地にて結成した。正一郎は弟の廉作と共に入隊し会計方となる。募兵活動を始め、物資や屋敷も奇兵隊の本陣として提供した。たちまち隊員が60名を超えたことから、阿弥陀寺(現赤間神宮)と極楽寺に本陣と屯所を移した。
一方、正一郎の母艶子においても、晋作の妻雅子と愛人おうの、国臣の愛人お秀、勤王歌人野村望東尼など回天の志士が安心して闘えるようにもてなし、三条実美卿はそのもてなしに「妻子らも心ひとつに君のためつくせる宿ぞさきくもあらめ」という句を残している。正一郎は家財が破産するまで尊攘運動に尽力したが、維新後は商売からも身を引き、招魂場の奉仕や赤間神宮の宮司としてひっそり過ごしたという。
(記述:谷田正彦 写真:吉岡一生)