横井小楠を訪ねる(福井城)


 

高杉晋作は、東国の遊歴中の万延元年(1860)、福井に行き何度か小楠と面会した。
その話題が何であったか計り知れないが、この会見で余程、小楠の人物、識見に敬服したと思われる。
その証としては、高杉が遊歴より帰郷してから、江戸にいる久坂玄瑞に当てた書に、次のようにある。

「加賀より越前の方へ出 (いで)申(し)候。
横井(小楠、)中々英物 (で)
有一無二(唯一無二)の士と奉(り)
存(じ) 候。」

高杉は久坂に対し、小楠をこのように推奨したばかりでなく、その翌年、文久元年(1861)九月には学頭 兼
兵制相談役として小楠を長州に招聘したいとの意見で、下記のように記している。

文久元年酉九月二十八日国の本學校。
學政一致は(、)學校の學校たる所以(ゆえん)。
故(に)學校の學長(は、)須擇其人(ひとを選んで用いるべき、の意)。
肥後隠士(である)横井平四郎(こと、横井小楠、)
實に熊澤了海にも譲らぬ人物。故先用此人可與國之基本。
(故に、この先、この人を用い、国の基本に与するなり、の意)
然則諸政事随之擧る埃。
(しかるに、諸々の政り事は、彼にのっとり従い取り行うことは誇りである、の意)
横井平四郎學頭 兼 御相談(役)之候事あり。

このことは、小楠が進歩的開国論を主張し、勤王家、佐幕家からも憎悪の標的となった後であるにもかかわらず、
高杉は小楠を、彼が傾倒した熊澤蕃山にも劣らぬ人物として感服していたと推測される。

さて、高杉が横井を訪ねた万延元年である。その時横井は、福井城三の丸の客館に居た。
安政5年(1858)3月に三の丸の明道館付近の渡辺隼太屋敷が御用屋敷となった。
ここに横井小楠は安政5年から文久元年まで客館に居住したと考えられている。
福井城は、約270年間17代にわたり越前松平家の繁栄の舞台となった名城であった。
築城当時は高さ37m・四層五重の雄大な天守閣と三重の堀をもっていたと言われる。
その壮麗な姿を若き日の晋作はどの様に見ただろうか。(記述:亀田 真砂子)

出典:・横井小楠伝/山崎正董著
・福井県文書館研究紀要
「福井藩家中絵図(山内秋郎家文書)を利用して」吉田健著
・『横井小楠』徳永洋著

写真:前田弘美  (横井小楠が居住していた三の丸の客館のあった福井城) (横井小楠と由利公正)

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