常栄寺(現・洞春寺地)
晋作と意気投合した僧・祖冥西堂が住職を務めた寺
常栄寺は毛利隆元の菩提寺として安芸国吉田荘(現・広島県安芸高田市吉田町)にあった郡山城の麓に創建されたが、毛利氏の防長移封に伴い、現在の洞春寺地に移転。文久3年(1863)、宮野の現在地へ移った。
文久元年(1861)3月23日、当時、萩に滞在していた常栄寺の僧・祖冥西堂(韻陽)は、その日の朝、晋作のもとを訪れ、禅について語り合った。同日、今度は、夕食を終えた晋作が西堂のもとを訪問。しかし、不在、その場を後にした。
24日、朝食を済ませた晋作は、再び西堂のもとを訪れ禅論。そこに、中谷正亮も来訪。その日の晋作の日記には、
常栄寺、実に奇僧なり
と記している。また、
人の腹にて、わきつはらの下をたんれんと云、此江我心をおちつかせねばならぬ
とも書いている。
26日早朝、晋作は西堂の訪問を受け禅論。ふたりは、随分と気が合ったものと思われる。
だが、それから2年後の文久3年(1863)4月22日、西堂が、常栄寺の馬場において、長井雅楽党と見なされ、宮城彦助によって斬殺された。
その頃、晋作は、萩郊外松本村の草庵で、妻マサと隠棲生活を送っていた。西堂の死が彼のもとに届いたのは、いつ頃だったのだろうか。
(記述:松前了嗣)