山口御茶屋跡(山口政事堂跡)
藩庁山口移転後に政事堂が置かれ、ここで晋作が奇兵隊創設案を建言した
文久3年(1863)3月15日、当時、京都に滞在していた晋作は、藩との決別を図り10年の暇を申し出た。それが許されると、16日、剃髪し東行と号した。その後、酒に溺れ自暴自棄になっていた彼は、4月10日、萩に連れ戻され、萩郊外の松本村で静かな日々を送る。
その頃、関門海峡では、久坂玄瑞らが、幕府の定めた5月10日の攘夷実行期限に従い、アメリカ商船を砲撃。その後もフランス軍艦、続いてオランダ軍艦を砲撃し、勝利の喜びにわいていた。だが、6月に入ると、アメリカ軍艦、続いてフランス軍艦が報復攻撃を開始。下関の砲台はことごとく破壊された。6月5日、こうした長州藩の危機に、藩主・毛利敬親は晋作を山口に呼び寄せた。この時、藩の危機を救うことのできる人物は、彼をおいて他に誰もいなかった。
願くハ馬関の事を以て臣に任せよ、臣一策あり、請ふ有志の士を募り一隊を創立し、名(づ)けて奇兵隊と云わん
晋作は、山口御茶屋に置かれていた政事堂で、藩主に奇兵隊創設案を建言。6日、世子・毛利元徳の前に召されると、下関に出張するよう命じられ、7日、奇兵隊を結成。27日には政務座役ならびに奇兵隊総督を命じられたのであった。
(記述:松前了嗣)