山口大神宮
晋作の母、妻、妹が山口で訪れた場所 (かつては西のお伊勢様と呼ばれ賑わっていた大神宮)
文久3年(1863)10月1日、晋作は、知行160石を給せられ、大組に加えられることになった。さらに、御手廻組にも加えられ、奥番頭格となり、世子公内用掛を命じられた。その翌日、彼は萩の両親に手紙を書いている。
御母さまにも近々御来輿之由被仰越奉喜悦候。山口は強て見物無御座候共、少々は御間きれに相成候事も御座候付、何卒早々御出之程奉待候。湯田辺御出等之儀も諸雑用共爰元にて、私より弁候間、早々御出之程奉希候
晋作は、母ミチが訪ねて来ることになり大変喜んだ。山口は特に見学する所もないが、少しは気が紛れるだろう。湯田温泉へ行く際の諸雑用ついても、自分の方で手配するといっている。また、早く山口に来るようにとも伝えている。
9日、晋作が父・小忠太に宛てた手紙には、母と妻マサ、妹ミツが、中間の繁作を伴い、山口を訪れたことが書かれている。この時、彼女たちは、山口大神宮や、氷上山興隆寺などを参拝。30日には母と妹は萩へ戻り、妻は山口に残った。
この間、晋作は、20日から26日まで、岩国出張のため山口を不在にした。仕事の気苦労が多かった彼は、わずかの期間ではあったが、家族との再会を、大変喜んだことだろう。
(記述:松前了嗣)