小倉城
小倉戦争 高杉晋作最後の戦い
小倉口の戦闘は、慶応2年(1866)6月17日から始まった。
幕府側の諸藩の中でも、肥後細川家は大大名であり、長州藩にとっても、肥後藩が本気になったら強敵であることは十分心得ていた。ただ、指揮官の長岡監物がもともと征長に反対であったことから、総督の小笠原長行と度々衝突した。
幕府軍の中には、幕府直属の「幕府千人隊」という部隊がいたが、6月17日の緒戦で軍目付の斎藤図書が逃げ出して面目丸つぶれとなる。結果、諸藩の信用を失ったが、一方、高杉晋作が率いる長州軍は意気軒昂だったと言われる。
その後、7月3日の大里の戦いでは、奇兵隊や報国隊が善戦し、幕府軍の防御陣地を破壊した。
長州軍はいよいよ小倉攻略を目指し、7月27日に3度目の渡海上陸作戦を敢行。しかし、アームストロング砲を備えた肥後藩の猛攻、また海上では幕府軍艦3隻が大里と赤坂の間を砲撃したため、長州兵は多くの屍を越えて戦うこととなった。しかし、肥後藩も損害が少なくない。さらに、朝から夕方までずっと戦っているのに、幕府の援軍はこない。ついに、長岡監物は「もうやってられるか」と激怒して、全軍撤収して帰国してしまう。窮した小倉藩家老・田中孫兵衛が小笠原長行のもとに駆けつけると、小笠原は富士山丸で大坂に逃亡した後だった。実は、大阪城にいた将軍・家茂が薨去したという重大情報がもたらされたからだ。それを知った小倉藩は絶望した。急遽、評定を行った結果、城に火をかけて撤退したのである。それは8月1日のことであった。
家茂にかわって将軍になった慶喜は、小倉城落城を聞いて急速に戦意を失い、朝廷に勅命をあおいで止戦に持ち込む。そして、ついに9月4日、幕府軍は長州の国境周辺から撤退した。
当初の天守は天保8年(1837)に焼失していたので、小倉戦争の時にはなかった。現在の天守が再建されたのは、昭和34年(1959)である。
(記述:亀田真砂子)