奇兵隊 吉田陣屋跡


 

 

 

 

 

白石正一郎邸で結成された「奇兵隊」は、慶應元年(1865)4月に吉田に陣を構えて町全体を要塞化し、寺院などに分散して駐屯していた。そんな仮住まい状態が約2年続いた後慶應3年8月に、吉田諏訪の地に陣屋を築く。明治2年(1869)11月の解散までここが奇兵隊本陣となる。

専用の陣屋として御本陣、機械方、砲隊、一番、二番、三番、四番、五番、飯台場、稽古場、講堂などの建物が配置された。

奇兵隊の隊規は厳格であった。晋作は、奇兵隊結成と同時に5ヶ条の法令を作っている。

①隊員一伍長一総督の指揮系統のもと一隊一和が肝要であること。

②陣中勝手な外出をしないこと。

③酒宴、遊興、淫乱、声高の禁止。

④喧嘩口論の禁止および計謀策略の意見は伍長を通して総督へ申し出ること。

⑤陣中敵味方強弱批判の禁止。

また奇兵隊の日課には、時期によって異なるが、元治元年(1864)1月の「稽古規則」では次のように定められていた。

5:00-7:00        文学稽古

6:00-9:00   剣術稽古

8:00-12:00   槍術・銃陣・野戦砲射術稽古

14:00-17:00   大砲稽古

18:00-20:00   文学稽古

(ただし月のうち1、4、6、9の日は8時〜12時は馬術。4、9の日は14時から講釈。一日おきに夜は輪読)

奇兵隊や諸隊では、軍事訓練はもとより、文学稽古や読書などに比較的多くの時間を割いており、隊員の教養向上が図られた。一種の教育機関としての役割も担っていたのである。 (記述:亀田真砂子)

 

◼️参考文献:『高杉晋作と奇兵隊』東行庵

 

◼️アクセス:①下関市ICから車で10分  ②JR小月駅からバスで14分 東行庵入口で下車して徒歩10分

 

 

前の記事

功山寺山門

次の記事

壇之浦砲台・前田砲台跡