壇之浦砲台・前田砲台跡
馬関攘夷戦争
文久3年(1863)5月10日、幕府は攘夷決行を決めた。
久坂玄瑞たち光明寺党は亀山神社の下から舟を漕ぎ出し、関門海峡を渡る外国船に次々と砲撃を行う。
5月10日 アメリカの商船ペンブローグ号
5月23日 フランス艦キャンシャン号 そして、5月26日 オランダ軍艦メデューサ号
各国の船に損害を与えた長州軍は勝利に沸き、自己過信に陥った。
しかし、6月1日に、アメリカ軍艦ワイオミング号がペンブローク号の仕返しに来襲。長州の壬戌丸、庚申丸が撃沈された。長州藩は、この痛手から立ち直る暇もなく、今度は6月5日にフランス軍艦セミラミス号、タンクレード号の来襲を迎えなければならなかった。両艦はいったん九州側の田野浦に投錨、午前9時頃から海峡を横切るようにして長州側主力の前田、壇ノ浦砲台に接近、砲弾を撃ち込む。長州側も前田沖200メートルの距離に近づいた時、ようやく射程内に捉えて一斉に砲撃を開始する。この砲撃戦は2時間に渡って繰り広げられるが、長州側の砲は火縄筒で、一発撃てばその都度、洗い矢で洗って次の発射にかかる。しかも一発ごとに砲身が後ろに下がるため、テコでまた元の位置に戻さなければならないといった状態。また弾丸もフランスのものと全く威力が違い、前田、壇ノ浦砲台は完全に沈黙させられてしまった。
そしてフランス軍は、陸戦隊70人、水兵180人の兵力を持って前田の東海岸へ上陸を決行、長州兵も必死に戦ったが、防ぎきれず、遂に砲台を放棄。前田の民家も焼き払われ、本陣の慈雲寺にも火を放たれるなど、白兵戦が展開され、両軍かなりの死傷者を出した。砲台を占領したフランス軍は、火薬や弾丸を海中に投棄、大砲には鉄釘を打ち込むなど使用不能とし、午後4時過ぎにようやく両艦に引き揚げ、夕刻出航、横浜へと去っていった。
戦利品として奪われた長州砲は、英仏蘭米各国に持ち帰られた。
フランスパリのアンヴァリッド軍事博物館の庭には、数門残っている。そのうちの1門が永久貸与という名目で、下関に里帰りした。作家の故古川薫氏らの尽力によるものであった。
現在、下関市歴史博物館で常設展示されている。
高杉晋作は、6月4日に山口政事堂に呼ばれ、藩主から馬関台場の立て直しを命じられ、下関に入る。実際の戦闘に加わった訳ではないが、この惨状は見ているだろう。2日後の6月6日には、早くも胸中決する所をもって下関の竹崎で廻船問屋を営む豪商・白石正一郎の邸に入る。直ちに奇兵隊を結成し、倒幕維新の原動力になる長州諸隊誕生のきっかけを作ったのである。 (記述:亀田 真砂子)
出典:『下関 その歴史を訪ねて』 清永唯夫著
✳️前田砲台と長州砲についての詳細はこちらのサイトで https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a19300/ishinshi/topics04_sp.html