功山寺山門

-晋作・功山寺決起-

「これより、長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す。」

元治元年(1864年)12月15日、一面銀世界となった雪の夜、高杉晋作挙兵。その舞台となった功山寺。

荘厳に佇む二重櫓造りの山門は、長府藩10代藩主毛利匡芳の命を受けて安永2年(1773年)に建立された。入母屋造り、本瓦葺の屋根は美しい反りを見せ、三門三戸二重門の様式を整えている。晋作もこの山門をくぐって挙兵・出陣したのである。

晋作の決起に同調したのは、単騎で来た前原一誠、伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊のわずか80名。五卿から渡された「忠義填骨髄」の旗を掲げ進軍しようとすると、福田侠平が晋作の馬前に立ちはだかる。自身の遺言により、東行庵で晋作の横に眠るこの男。この時も本気で晋作のことを心配しての行動だったのであろう。目指すは長府藩内の長州藩下関新地会所。長府藩は事前に挙兵中止の要請と長府藩領は通行不可であると伝えていた。晋作は激怒したが、長府藩の立場を考慮し、船で向かうと使者へ告げた。実際は野久留米街道から前田に抜ける陸路で進軍したわけだが、これに対して長府藩は邪魔立てすることはなく、晋作らは下関新地会所へ進むことができたのである。

240年に亘って数々の歴史のシーンを見守ってきた山門は、倒壊の危険性が指摘され、解体ののち、柱や梁などを部位毎に補修するなど、およそ2年の歳月をかけて2015年6月に復元された。
春には桜、秋には紅葉に彩られ、山門とのコントラストが実に美しいが、雪の功山寺であの日の晋作に想いを馳せるのも一興である。

(記述:稲田 卓) (雪の功山寺画像:渡辺久徳)

功山寺山門(表)

功山寺山門(境内より)

功山寺本殿

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