高義亭

高杉晋作が佐久間象山を訪ねた場所

万延元年(1860)9月21日 高杉晋作は信州・上田を発ち、佐久間象山に会うため松代へ向かった。

佐久間象山は松代藩士で、天保4年江戸に出て佐藤一斎に学び、渡辺崋山や藤田東湖等と親交を深め天保10年には私塾を開いて朱子学者としての名声を得る。天保13年藩主真田幸貴の老中海防掛就任に伴いその顧問として海外事情の研究を行う。またオランダ語を学び始めて医学や兵学など洋学の知識を身につけ、嘉永3年(1850)江戸で砲術・兵学の塾を開き、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬、橋本佐内らが学ぶ。

安政元年(1854)門人である吉田松陰らが起こしたアメリカ密航未遂事件に連座し、松代に蟄居を命じられたが、その間高杉晋作はじめ、久坂玄瑞、中岡慎太郎らが象山を訪ねた。

9月21日に松代に到着した晋作は、翌22日文武学校で松代藩士と剣術の試合を行いその夜中密かに象山を訪れた。謹慎中だった象山は他人との面会を禁じられていたためである。

何を話したか内容を記す史料はないが、夜明けまで国家の時勢について議論を交わした。

象山が晋作と面会を行った場所は、松代藩家老望月主水貫恕の下屋敷にあった高義亭という建物で、蟄居を命ぜられた象山は望月氏の下屋敷聚遠楼に住んでいたが、来客があった際に高義亭を利用し、この二階の七畳半の間で訪問者と国家の時勢を論じた。

明治以降住人が変わり一部改築されていたが、現在は当時の構造に復元され象山神社敷地内に移築保存されている。

面談に利用した部屋の壁には、高杉晋作、久坂玄瑞、中岡慎太郎の写真を見ることができる。

象山神社の敷地内、この高義亭の斜め向かいに松代藩8代藩主真田幸貴公と佐久間象山を中心に象山の門下生であった橋本佐内、坂本龍馬、勝海舟、吉田松陰、小林虎三郎の銅像が並び、その横に訪問者として久坂玄瑞、高杉晋作、中岡慎太郎のレリーフも並んでいる。

ここから歩いて数分の場所に象山記念館もあり、佐久間象山にまつわる資料を見学することができる。

(記述:岡嶋寛恵)

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