長門国厳島神社

晋作が小倉戦争の戦勝祈願をした神社

安徳天皇の乗る御座船に祀られていた安芸国の厳島神社の分霊が壇ノ浦の戦いの後に磯辺に放棄されたという。文治元年(1185年)、地元の住民たちが社殿を建立し、安芸国の厳島神社より分霊をあらためて勧請した。

高杉晋作は、慶応2年(1866年)の四境戦争を始めるにあたり、ここで戦勝祈願を行ったといわれている。小倉口の戦いでは、高杉晋作は奇兵隊と報国隊を指揮して戦った。同年8月1日(1866年8月29日)、幕府軍総帥小笠原壱岐守がついに小倉城を脱出し、自ら城に放火した。

城内に攻め入った長州軍は余燼の中から太鼓を持ち帰り、当神社の祭神へのお礼として奉納した。これが現在、拝殿前にある大太鼓である。この太鼓はケヤキのくり抜きで、直径1.10m、胴の長さ1.70mあり、城の楼に吊るして時を知らせていたものだった。持ち帰られた太鼓は神社の倉庫に入れたままであったのを、のち大正天皇御大典記念として大西吉郎が太鼓の張替えを、また松永幸作が太鼓堂を寄進し、厳島神社の名物となった。

この神社の付近には、高杉晋作所縁の史跡が多くあり、付近に萩藩新地会所跡、終焉の地、療養の地、桜山神社、了圓寺、ひょうたん井戸などがある。

(記述:松本和良)

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