東行庵


東行とは西行法師に憧れた晋作が、自ら付けた号である。

 西へ行く人を慕いて東行く わが心をば神ぞ知るらん

と晋作は詠んだ。
泰平の世であれば、彼は詩人になりたかった。

慶応3年(1867)4月、高杉晋作は遺言により奇兵隊の本陣に近い吉田清水山に葬られた。
晋作は生前、愛妾おうのに

「おれが死んだら墓守になれ、そうすればみんなも、おうのを見捨てはすまい」

と遺言したと言われている。晋作没後すぐにおうのは梅処と名乗り、しばらくは桜山の東行庵に住んでいた。
梅処とは梅の花を愛した晋作が、自ら作っておうのに贈った茶杓の銘に「梅處」と記してあったことからおうのが名乗ったと推察される。

山縣有朋は、晋作の墓に近い清水山の麓の自身の住居「無隣庵」を明治2年(1872)欧州視察に出発するのに際し、晋作の菩提を弔うこととなった梅処に贈った。さらに明治7年(1874)には「無鄰菴」の隣接地を買い求め、梅処に贈っている。明治14年(1881)梅処は正式に曹洞宗の仏門に入り尼僧となる。後に梅処尼は、東行庵建設資金の寄付を依頼する為に東京の井上馨を訪ねている。現在の庵は、旧藩主毛利元昭、伊藤博文、山縣有朋、井上馨など全国諸名士、総勢143人の寄付により明治17年(1884)高杉晋作の霊位礼拝堂、曹洞宗清水山東行庵として建立された。

庵内の仏壇には、高杉晋作と高杉家、山縣有朋等の位牌も安置されている。昭和41年(1966)高杉晋作の百年祭を機に大修理を行った。また150年以上、大切に守られてきた庵は、今では花の寺と呼ばれるようになった。早春には晋作が愛した梅、春には桜、初夏には蓮や菖蒲、秋は紅葉、冬には椿と四季を通じて様々な花に彩られる。

(記述:松尾美弥子 庵の写真:吉岡一生)

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