平尾山荘(野村望東尼山荘)


元治元年11月11日、福岡藩脱藩浪士中村円太に連れられて、晋作は谷梅之助と名乗り、平尾山荘を訪れる。平野國臣、月形潜蔵はじめ九州諸藩の勤王の志士たちの隠れ家や密議の場ともなっていた野村望東尼の山荘である。
野村望東尼は福岡藩士・浦野重右衛門の娘。同じ福岡藩士の野村貞貫に嫁ぐ。また彼女は大隈言道に師事した女流歌人であった。夫の死後剃髪して受戒。師の大隈言道を訪ねた京にて次第に政治に興味を持ち、隠遁していた山荘にて勤王の志士たちを匿うなどして、そこは次第にアジトとなっていた。

そこに晋作が現れた。幕府や国から命を狙われて長州を脱し、九州統合の夢破れ、行き場のない失意のどん底にあった晋作に対し、歌人である望東尼は歌を詠み彼を励ました。

 谷梅という人 世をはばかりてありけるに
 『冬ふかき雪のうちなる梅の花 埋もれながらも香やは隠るる』

と詠んでいる。

谷梅之助とは晋作の変名である。
晋作は10日あまりの山荘滞在で、徐々に平常心を取り戻していく。

だが長州は第一次長州征伐中止に対する幕府への詫びとして、三家老の首を差し出すなど厳しい状況にあった。それを知った晋作は長州に戻る決意をする。

 まごころをつくしのきぬは国のため たちかえるべき衣手にせよ

望東尼はこの歌とともに徹夜で縫い上げた着物を贈った。それは、無事に長州に戻れるようにと願いを込めて、町人に変装する着物に仕立て上げられていた。晋作は大変感謝し、お礼の漢詩を残して平尾山荘を辞する。また後日、あの世で再会を祈る手紙を届けている。

この着物を身に着けた晋作の姿は山口県下関の日和山公園に立つ像に見ることができる。
長州に戻った晋作は、功山寺決起を成し遂げ俗論派を退けていく。
その朗報を聞いた望東尼は次のように詠んでいる。

 谷梅という人、国の仇をたひらげとききて
 『谷み含みし梅の咲きいづる 風のたよりもかぐはしきかな』

今の平尾山荘の建物自体は3代目。現在は福岡市の史跡公園として整備、山荘も当時の面影を残している。敷地内には資料館もある。また望東尼百五十年忌祭の記念として望東尼と晋作の山荘での様子が描かれたレリーフが建造された。

(記述:高木あづみ)

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