加藤有隣旧宅跡(十三山書楼跡)

笠間の加藤有隣

加藤有隣旧宅跡(十三山書楼跡)
加藤有隣旧宅跡(十三山書楼跡)
加藤有隣旧宅跡(十三山書楼跡)
加藤有隣旧宅跡(十三山書楼跡)

高杉晋作が加藤有隣をより知ることになったのは同じ藩士であった赤川直次郎(佐久間左兵衛)の紹介であろう。
赤川直次郎は水戸藩・会沢正志斉のもとで有隣と共に学んだ仲であった。

加藤有隣は号を穆軒、のちに桜老。
水戸藩士の子に生まれ後に笠間藩士加藤惣蔵の養子となる。
加藤家は藩主の前で代々御前講義を行うなどの学者の家であったが、有隣は家名に恥じない優れた才能を発揮した。
18歳で笠間藩に出仕、藩校時習館の都講に任命されている。
※参考までに晋作が明倫館都講を命ぜられたのは22歳の時である。

都講を辞し水戸藩・会沢正志斉・藤田東湖に学び、遊学を経て笠間に戻った有隣は藩政改革に身を投じる。
以降、藩の要請に従わず隠居を命じられた有隣は子に家督を譲り笠間郊外に書楼を建て隠居した。
これが『十三山書楼』と言われ、1階は私塾として開放され2階は応接間兼書斎となっている。

ここに高杉晋作は2度訪れており一度は遊学中、二度目は脱藩し攘夷断行の同志を募る相談をする為であった。

一度目の遊学については『試撃行日譜』と題した日記が現存しており、それには航海術修行は自分に合わない為に辞めたが(晋作が江戸に来たのは航海術を学ぶ為だった)江戸に留まり学問と剣術に打ち込むつもりだった。
しかし、父からの帰国の催促を受けて帰国を決意するも、このまま帰国したのでは殿様に申し訳ない。
そこで遊学を願い出て東北,北陸を跋渉して帰省する事にしたという経緯が書かれており、さらに奇人偉士を探るのを主とすると記されている。
その奇人偉士は

笠間の加藤有隣
信州の佐久間象山
越前の横井平四郎(小楠)
安芸の吉村秋陽

の4名であった。

笠間の十三山書楼を訪れた晋作を快く迎えた有隣は晋作を気に入ったようで、朝から深夜まで対談をしており、近年の詩文稿まで贈っている。
翌朝、出発の挨拶に来た晋作をまた書楼に招いて論じたというから余程気に入ったようである。
二度目の来訪の際も血気にはやる晋作を藩にとどまるよう説得している。

のちに有隣は長州藩に招かれ明倫館で講義をする事になり、山口で私塾を開いている。
晩年は新政府に出仕し教育に力を注いだ。

御旗前

現在、笠間にある十三山書楼跡地には石碑が建てられており碑文にはこう刻まれている。

御旗前

江戸時代は四軒家、御旗前と呼ばれ武家町であったので、この町名になった。
幕末期の儒学者加藤桜老はここに『十三山書楼』を建て子弟の教育に当たった。
また長州藩の高杉晋作も二度訪れている。

余談ではあるが現在の笠間小学校が藩校・時習館跡地であり、晋作の師である吉田松陰が立ち寄り講義をした所でもある。

(記述:山中圭介)

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