山口県庁より山口の町を望む

山口の町

幕末、藩庁が置かれ、長州藩の政治の中心地となり、晋作も住んだ町。

暢夫の識を以て、玄瑞の才を行ふ、気は皆其れ素より有するところ、何をか為して成らざらん。暢夫よ暢夫、天下固より才多し、然れども唯一の玄瑞失うべからず。桂、赤川は吾れの重んずる所なり。無逸・無窮は吾れの愛する所なり。新知の杉蔵は一見して心与せり。此の五人の者は、皆志士にして、暢夫之を知ること熟せり。今幸いに東に在り。暢夫往け、急ぎ玄瑞を招きて之れを道ひ、且つ之れを五人の者に語れ

 安政5年(1858)7月5日、晋作は師・吉田松陰に江戸遊学の希望を述べた。そこで松陰は、それを実現させるため、手元役・周布政之助に働きかけた。こうして、18日、晋作に藩から文学修業のため、12カ月の遊学許可が下る。この日、松陰は晋作に厚い信頼と期待を寄せ、「高杉暢夫を送る叙」を認めた。そこには、晋作の学業のこと、国内の情勢や激励の言葉が綴られていた。

 20日、晋作は、松陰から贈られた手紙を携え、萩往還を南へ下った。この日、通り抜けた山口の町。あの山、あの川を、晋作はどのような思いで眺めたであろうか。

 その日から5年後、藩政の中心地は山口へと移される。晋作も、この町から時代の荒波に向かって駆け出して行くことになる。

(記述:松前了嗣)

所在地・アクセス

所在地:山口県山口市

洞春寺野地にはかつては常栄寺が置かれていた

常栄寺(現・洞春寺地)

晋作と意気投合した僧・祖冥西堂が住職を務めた寺

 常栄寺は毛利隆元の菩提寺として安芸国吉田荘(現・広島県安芸高田市吉田町)にあった郡山城の麓に創建されたが、毛利氏の防長移封に伴い、現在の洞春寺地に移転。文久3年(1863)、宮野の現在地へ移った。

 文久元年(1861)3月23日、当時、萩に滞在していた常栄寺の僧・祖冥西堂(韻陽)は、その日の朝、晋作のもとを訪れ、禅について語り合った。同日、今度は、夕食を終えた晋作が西堂のもとを訪問。しかし、不在、その場を後にした。

 24日、朝食を済ませた晋作は、再び西堂のもとを訪れ禅論。そこに、中谷正亮も来訪。その日の晋作の日記には、

 常栄寺、実に奇僧なり

と記している。また、

 人の腹にて、わきつはらの下をたんれんと云、此江我心をおちつかせねばならぬ

とも書いている。

 26日早朝、晋作は西堂の訪問を受け禅論。ふたりは、随分と気が合ったものと思われる。

 だが、それから2年後の文久3年(1863)4月22日、西堂が、常栄寺の馬場において、長井雅楽党と見なされ、宮城彦助によって斬殺された。

 その頃、晋作は、萩郊外松本村の草庵で、妻マサと隠棲生活を送っていた。西堂の死が彼のもとに届いたのは、いつ頃だったのだろうか。

(記述:松前了嗣)

所在地・アクセス

所在地:山口県山口市水の上町5-27(現・洞春寺地)

山口御茶屋跡

山口御茶屋跡(山口政事堂跡)

藩庁山口移転後に政事堂が置かれ、ここで晋作が奇兵隊創設案を建言した

 文久3年(1863)3月15日、当時、京都に滞在していた晋作は、藩との決別を図り10年の暇を申し出た。それが許されると、16日、剃髪し東行と号した。その後、酒に溺れ自暴自棄になっていた彼は、4月10日、萩に連れ戻され、萩郊外の松本村で静かな日々を送る。

 その頃、関門海峡では、久坂玄瑞らが、幕府の定めた5月10日の攘夷実行期限に従い、アメリカ商船を砲撃。その後もフランス軍艦、続いてオランダ軍艦を砲撃し、勝利の喜びにわいていた。だが、6月に入ると、アメリカ軍艦、続いてフランス軍艦が報復攻撃を開始。下関の砲台はことごとく破壊された。6月5日、こうした長州藩の危機に、藩主・毛利敬親は晋作を山口に呼び寄せた。この時、藩の危機を救うことのできる人物は、彼をおいて他に誰もいなかった。

 願くハ馬関の事を以て臣に任せよ、臣一策あり、請ふ有志の士を募り一隊を創立し、名(づ)けて奇兵隊と云わん

 晋作は、山口御茶屋に置かれていた政事堂で、藩主に奇兵隊創設案を建言。6日、世子・毛利元徳の前に召されると、下関に出張するよう命じられ、7日、奇兵隊を結成。27日には政務座役ならびに奇兵隊総督を命じられたのであった。

(記述:松前了嗣)

所在地・アクセス

所在地:山口県山口市中河原町5-12(クリエイティブ・スペース赤れんが周辺一帯)

宮島町より遠く東鴻翩山を望む

東鳳翩山と鰐石川

晋作が人生の再スタートをした際に詠んだ、漢詩の中に登場する山と川

 鳳岳脉遥跨中国 鰐川水即到西洋 佳肴肥腹酒洗肺 万地物天初顕年(鳳岳の脉は遥かに中つ国に跨り、鰐川の水は即ち西洋に到る。佳肴は腹を肥やし酒は肺を洗う。万地の物天初めて顕るるの年)

 この漢詩、「鴻城偶成」は、晋作が、藩主・毛利敬親の命を受け、萩から山口に呼び寄せられた、文久3年(1863)6月5日頃に詠んだものといわれている。

 鴻城とは山口の異称である。そして、鳳岳とは鳳翩山のことで、東鳳翩山と西鳳翩山の総称である。鰐川とは、東鳳翩山の北東斜面に源を発し、宮野、山口盆地、小郡を経て瀬戸内海へと注ぐ椹野川の、鰐石橋周辺の川、鰐石川のことである。この辺りからは西鳳翩山は見えないため、この詩の中でいう鳳翩山とは東鳳翩山のことであろう。

 この日を迎えるまでの2カ月間、晋作は、萩郊外松本村の草庵で、静かな日々を送っていた。東方で国事に奔走する友人たちに思いを馳せ、眠れぬ夜もあったことだろう。
わが国全土に続く東鳳翩山の脈、西洋まで通ずる鰐石川の流れ。肴で腹を満し、盃を傾ける。この世にあるもの全てが新鮮に映る、そんな季節の中、希望に満ちあふれた25歳の晋作は、山口の町で人生の再スタートを切ったのである。

(記述:松前了嗣)

所在地・アクセス

所在地:山口県山口市上宇野令
   山口県山口市鰐石町・宮島町

万徳院跡

万徳院跡

晋作が奇兵隊を率いて秋穂二島に移陣した際、本陣となった場所

 士と申者ハいつ死ぬる事か知れぬ者ゆへ、我れらてもわすも死ぬる事カ有か知ぬ。右に付、そもしも士の妻なれは、夫ガ死ぬれは、わとを守り、操を立て、夫のほをむりを致すガ女の役目ニて御座候。我れらハ死してもそもしの事はわすれ不申候

 文久3年(1863)8月16日、晋作は、萩にいる妻マサに手紙を書いた。この日夜、下関では奇兵隊が、日頃から対立していた先鋒隊の屯所、教法寺を襲撃。両隊ともに死者を出した。

 この事件の責任を取るため、晋作は、下関を訪れていた世子・毛利元徳に、切腹を申し出るが、27日、事件の発端となった宮城彦助が切腹することになり、彼は政務座役を罷免されるに留まった。

 9月2日、奇兵隊は吉敷郡二島村(現・山口市秋穂二島)へ転陣を命じられた。3日、3人の隊士が屯所の下見のため秋穂浦に到着。泉蔵坊(現・栄泰寺)、万徳院、真善坊、遍照寺を屯所に定めた。5日から6日にかけて7艘の船が秋穂浦と二島に到着、移陣が完了。7日より万徳院を本陣とし当直を始めた。当時の晋作の行動は明らかではないが、9日、彼は山口から奇兵隊本陣へ手紙を送っていることから、二島村に到着後、直ちに山口へ向かったものと思われる。

(記述:松前了嗣)

所在地・アクセス

所在地:山口県山口市秋穂二島1381

かつては西のお伊勢様と呼ばれ賑わった山口大神宮

山口大神宮

晋作の母、妻、妹が山口で訪れた場所 (かつては西のお伊勢様と呼ばれ賑わっていた大神宮)

 文久3年(1863)10月1日、晋作は、知行160石を給せられ、大組に加えられることになった。さらに、御手廻組にも加えられ、奥番頭格となり、世子公内用掛を命じられた。その翌日、彼は萩の両親に手紙を書いている。

 御母さまにも近々御来輿之由被仰越奉喜悦候。山口は強て見物無御座候共、少々は御間きれに相成候事も御座候付、何卒早々御出之程奉待候。湯田辺御出等之儀も諸雑用共爰元にて、私より弁候間、早々御出之程奉希候

 晋作は、母ミチが訪ねて来ることになり大変喜んだ。山口は特に見学する所もないが、少しは気が紛れるだろう。湯田温泉へ行く際の諸雑用ついても、自分の方で手配するといっている。また、早く山口に来るようにとも伝えている。

 9日、晋作が父・小忠太に宛てた手紙には、母と妻マサ、妹ミツが、中間の繁作を伴い、山口を訪れたことが書かれている。この時、彼女たちは、山口大神宮や、氷上山興隆寺などを参拝。30日には母と妹は萩へ戻り、妻は山口に残った。

 この間、晋作は、20日から26日まで、岩国出張のため山口を不在にした。仕事の気苦労が多かった彼は、わずかの期間ではあったが、家族との再会を、大変喜んだことだろう。

(記述:松前了嗣)

所在地・アクセス

所在地:山口県山口市滝町4-4

江良周辺の様子

静間家の借家-晋作の寓居-


 文久3年(1863)9月27日、晋作は、萩の両親に手紙を書いた。

 山口私寄宿処ハ、江良村静間某之処ニて、格別入用之人も無之候故、断然御定候。立小路(堅小路)ヲ去事十四五下計、頗御閑静之場所ニ御座候。家も手細く小シンマリトして、住居も随分宜敷御座候

 その頃、晋作は、吉敷郡桜畠村江良(現・山口市江良)の静間家の借家に住んでいた。現在、この家の正確な場所は不明だが、堅小路から1.5㎞ほど東に入った閑静な所で、大変気に入っていたようだ。

 これより先、9月5日から6日にかけて、奇兵隊を率いて吉敷郡二島村(現・山口市秋穂二島)に移陣した彼は、10日に政務座役に再任されるが、15日には奇兵隊総督の任を解かれていた。奇兵隊を結成して、わずか3カ月後のことであった。晋作の手紙は続く。

 白雲野鶴之隙、朝暮ハ被思出候。私之幽栖之処ニ御座候

 晋作は、空に浮かぶ白雲のように、野に遊ぶ鶴のように、萩郊外の松本村で悠々と暮らしていたあの頃を思い出し、暇を申し出て、再び隠棲生活をしようと考えていたようだ。この時、藩政府に御役御免申立演説書を提出したが、認められなかった。彼には、まだ次の大仕事が待っていたのだ。

(記述:松前了嗣)

所在地・アクセス

所在地:山口県山口市江良(正確な場所は不明)

鰐石町の重岩と姫山

鰐川村舎

晋作と妻マサの寓居 義父・井上平右衛門宅の離れ座敷

その手紙の表書きには、

鴻城鰐川村舎南窓取筆

の文字が見える。

 文久3年(1863)10月30日、晋作は、公私の事情を記した長文の手紙を、父・小忠太に送った。

 鰐川とは鰐石川のことで、山口市内を流れる椹野川の鰐石橋周辺の川を指す。したがって、鰐川村とは、現在の鰐石町周辺のことと思われる。

 当時、晋作と妻マサは、山口町奉行の職に就いていた義父・井上平右衛門宅の離れ座敷に身を寄せていた。鴻城鰐川村舎とは、この建物のことであろう。

 その離れ座敷だが、母屋、客間、中庭を隔てた場所にあり、6畳と4畳半の2部屋しか無かったようだ。町屋特有の、間口が狭く奥に長い、うなぎの寝床のような場所だったのだろう。そこでふたりは、2畳ばかりの落室を増築し、そこを家政婦の住む部屋としたようだ。落室とは、普通の座敷より少し床板を低く作る部屋のことをいう。

 晋作は、妻を一度も叱ったことがなかったという。ふたりが一緒に暮らした期間はわずかであったが、ここ鰐川村舎での暮らしが、彼らの生涯において最も充実した時期であったものと思われる。

 長男の梅之進(東一・春雄)が生まれたのは、翌年の元治元年(1864)10月5日のことであった。

(記述:松前了嗣)

所在地・アクセス

所在地:山口県山口市鰐石町周辺(正確な場所は不明)

氷上山興隆寺にある妙見社

氷上山興隆寺

晋作の母、妻、妹が、山口にやって来た際に訪れた場所

 大内氏の氏寺、氷上山興隆寺。隆盛を極めた頃、この辺り一帯は、寺や坊が100宇ほど建ち並び、約500人の僧が住んでいたといわれている。

 ここは、大内義隆の家臣・陶晴賢の乱により戦火に見舞われたたため、一時衰退したが、行海によって再興された。彼の墓は、寺の北側の小高い山上にある。

 その行海の従士を務めたていたのが、坂九郎左衛門時存であり、その二男が、晋作の4代前の当主・又左衛門春善である。時存は、長州藩において数々の功績を立てた能吏で、高杉家の誇りであった。

 中興の祖・行海によって一時は寺も盛り返したが、明治に入ると、東照宮は築山神社へ移築。本堂は龍福寺に売却されるなど、急激な縮小再編が行われた。

 さらに、戦後の農地解放が急激な宅地開発へつながり、現在は、中興堂、妙見社、庫裏を残すのみである。

 文久3年(1863)10月26日、当時、三田尻に滞在していた、三条西季知、東久世通禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳ら5人の公家が、興隆寺へと移ったが、同じ頃、晋作の母ミチ、妻マサ、妹ミツも、この寺を参拝している。

 あの日、彼女たちがこの地を訪れたのは、時存の恩師である行海の、墓参りのためだったのかもしれない。

(記述:松前了嗣)

所在地・アクセス

所在地:山口県山口市大内氷上5-14-45(妙見社周辺一帯)