下関市立東行記念館

下関市立東行記念館


高杉晋作百年祭記念事業の一環として全国有志の寄付により建設され昭和41年(1966)4月14日に開館。
その後、平成22年(2010)6月1日東行記念館の2階部分を下関市立東行記念館として開設した。

高杉晋作の自筆の書状や遺墨、所用の三味線や瓢箪等の愛用していた品々、功山寺決起で着用した鎧兜、写真や肖像画、晋作がおうのに贈った鞄、奇兵隊や東行庵に関する資料など多数収蔵、展示している。それらは高杉家が市に寄託した158点の遺品からなる。年に5〜6回展示替えをするので、事前にお問い合せして行かれることをおすすめする。

またここでしか手に入らないような書籍や雑貨等が販売されており、オリジナルの御朱印帳に東行庵の御朱印を頂くこともできる。

記念館についてはこちら→   http://www.shimohaku.jp

(記述:松尾美弥子)

所在地・アクセス

所在地:下関市吉田町1184番地

アクセス:JR山陽本線小月駅からバス 14分 「東行庵入口」バス停から徒歩5分

公式ページhttps://www.tougyouan.jp/

東行庵

東行庵


東行とは西行法師に憧れた晋作が、自ら付けた号である。

 西へ行く人を慕いて東行く わが心をば神ぞ知るらん

と晋作は詠んだ。
泰平の世であれば、彼は詩人になりたかった。

慶応3年(1867)4月、高杉晋作は遺言により奇兵隊の本陣に近い吉田清水山に葬られた。
晋作は生前、愛妾おうのに

「おれが死んだら墓守になれ、そうすればみんなも、おうのを見捨てはすまい」

と遺言したと言われている。晋作没後すぐにおうのは梅処と名乗り、しばらくは桜山の東行庵に住んでいた。
梅処とは梅の花を愛した晋作が、自ら作っておうのに贈った茶杓の銘に「梅處」と記してあったことからおうのが名乗ったと推察される。

山縣有朋は、晋作の墓に近い清水山の麓の自身の住居「無隣庵」を明治2年(1872)欧州視察に出発するのに際し、晋作の菩提を弔うこととなった梅処に贈った。さらに明治7年(1874)には「無鄰菴」の隣接地を買い求め、梅処に贈っている。明治14年(1881)梅処は正式に曹洞宗の仏門に入り尼僧となる。後に梅処尼は、東行庵建設資金の寄付を依頼する為に東京の井上馨を訪ねている。現在の庵は、旧藩主毛利元昭、伊藤博文、山縣有朋、井上馨など全国諸名士、総勢143人の寄付により明治17年(1884)高杉晋作の霊位礼拝堂、曹洞宗清水山東行庵として建立された。

庵内の仏壇には、高杉晋作と高杉家、山縣有朋等の位牌も安置されている。昭和41年(1966)高杉晋作の百年祭を機に大修理を行った。また150年以上、大切に守られてきた庵は、今では花の寺と呼ばれるようになった。早春には晋作が愛した梅、春には桜、初夏には蓮や菖蒲、秋は紅葉、冬には椿と四季を通じて様々な花に彩られる。

(記述:松尾美弥子 庵の写真:吉岡一生)

関連人物

所在地・アクセス

所在地:下関市吉田町1184番地

アクセス:JR小月駅からバス 14分 「東行庵入口」バス停から徒歩5分

公式ページhttps://www.tougyouan.jp/

壇之浦砲台・前田砲台跡

馬関攘夷戦争

 

 

 

 

文久3年(1863)5月10日、幕府は攘夷決行を決めた。

久坂玄瑞たち光明寺党は亀山神社の下から舟を漕ぎ出し、関門海峡を渡る外国船に次々と砲撃を行う。

5月10日 アメリカの商船ペンブローグ号

5月23日 フランス艦キャンシャン号  そして、5月26日 オランダ軍艦メデューサ号

各国の船に損害を与えた長州軍は勝利に沸き、自己過信に陥った。

しかし、6月1日に、アメリカ軍艦ワイオミング号がペンブローク号の仕返しに来襲。長州の壬戌丸、庚申丸が撃沈された。長州藩は、この痛手から立ち直る暇もなく、今度は6月5日にフランス軍艦セミラミス号、タンクレード号の来襲を迎えなければならなかった。両艦はいったん九州側の田野浦に投錨、午前9時頃から海峡を横切るようにして長州側主力の前田、壇ノ浦砲台に接近、砲弾を撃ち込む。長州側も前田沖200メートルの距離に近づいた時、ようやく射程内に捉えて一斉に砲撃を開始する。この砲撃戦は2時間に渡って繰り広げられるが、長州側の砲は火縄筒で、一発撃てばその都度、洗い矢で洗って次の発射にかかる。しかも一発ごとに砲身が後ろに下がるため、テコでまた元の位置に戻さなければならないといった状態。また弾丸もフランスのものと全く威力が違い、前田、壇ノ浦砲台は完全に沈黙させられてしまった。

そしてフランス軍は、陸戦隊70人、水兵180人の兵力を持って前田の東海岸へ上陸を決行、長州兵も必死に戦ったが、防ぎきれず、遂に砲台を放棄。前田の民家も焼き払われ、本陣の慈雲寺にも火を放たれるなど、白兵戦が展開され、両軍かなりの死傷者を出した。砲台を占領したフランス軍は、火薬や弾丸を海中に投棄、大砲には鉄釘を打ち込むなど使用不能とし、午後4時過ぎにようやく両艦に引き揚げ、夕刻出航、横浜へと去っていった。


戦利品として奪われた長州砲は、英仏蘭米各国に持ち帰られた。
フランスパリのアンヴァリッド軍事博物館の庭には、数門残っている。そのうちの1門が永久貸与という名目で、下関に里帰りした。作家の故古川薫氏らの尽力によるものであった。

現在、下関市歴史博物館で常設展示されている。

 

 

高杉晋作は、6月4日に山口政事堂に呼ばれ、藩主から馬関台場の立て直しを命じられ、下関に入る。実際の戦闘に加わった訳ではないが、この惨状は見ているだろう。2日後の6月6日には、早くも胸中決する所をもって下関の竹崎で廻船問屋を営む豪商・白石正一郎の邸に入る。直ちに奇兵隊を結成し、倒幕維新の原動力になる長州諸隊誕生のきっかけを作ったのである。  (記述:亀田 真砂子)

 

出典:『下関 その歴史を訪ねて』 清永唯夫著

✳️前田砲台と長州砲についての詳細はこちらのサイトで https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a19300/ishinshi/topics04_sp.html

 

所在地・アクセス
功山寺山門 

功山寺山門

-晋作・功山寺決起-

「これより、長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す。」

元治元年(1864年)12月15日、一面銀世界となった雪の夜、高杉晋作挙兵。その舞台となった功山寺。

荘厳に佇む二重櫓造りの山門は、長府藩10代藩主毛利匡芳の命を受けて安永2年(1773年)に建立された。入母屋造り、本瓦葺の屋根は美しい反りを見せ、三門三戸二重門の様式を整えている。晋作もこの山門をくぐって挙兵・出陣したのである。

晋作の決起に同調したのは、単騎で来た前原一誠、伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊のわずか80名。五卿から渡された「忠義填骨髄」の旗を掲げ進軍しようとすると、福田侠平が晋作の馬前に立ちはだかる。自身の遺言により、東行庵で晋作の横に眠るこの男。この時も本気で晋作のことを心配しての行動だったのであろう。目指すは長府藩内の長州藩下関新地会所。長府藩は事前に挙兵中止の要請と長府藩領は通行不可であると伝えていた。晋作は激怒したが、長府藩の立場を考慮し、船で向かうと使者へ告げた。実際は野久留米街道から前田に抜ける陸路で進軍したわけだが、これに対して長府藩は邪魔立てすることはなく、晋作らは下関新地会所へ進むことができたのである。

240年に亘って数々の歴史のシーンを見守ってきた山門は、倒壊の危険性が指摘され、解体ののち、柱や梁などを部位毎に補修するなど、およそ2年の歳月をかけて2015年6月に復元された。
春には桜、秋には紅葉に彩られ、山門とのコントラストが実に美しいが、雪の功山寺であの日の晋作に想いを馳せるのも一興である。

(記述:稲田 卓) (雪の功山寺画像:渡辺久徳)

功山寺山門(表)

功山寺山門(境内より)

功山寺本殿

所在地・アクセス

所在地:下関市長府川端1-2-3

アクセス:JR山陽本線長府駅 バス「城下町長府」下車 徒歩10分

公式ページhttp://kouzanji.org/

下関 稲荷遊廓


現在下関市唐戸にある東京第一ホテル裏あたりが昔、稲荷町といわれ賑わった遊里である。
風情ある建造物とか、今は全くないのが残念である。

表の稲荷町に対して、「裏町」と呼ばれる色里があり、そこに「堺屋」という妓楼があった。高杉晋作の運命の女性おうの(源氏名:此の糸)が居たところである。高杉とはいつ出会ったのかはっきりわかっていないが、生死をかけた高杉に寄り添い、最後は墓守をして一生を終えた女性である。

東京第一ホテルの裏手の細い道の先に石段がありそこをあがっていくと稲荷町の名残を留める稲荷神社がある。町名の起こりであり、町の守り神でもあったこの稲荷神社は、伝えでは大同4年(809)の創始ということで、下関の旧市街地である赤間席で最も古い時代の神社であり、土地柄から商売繁盛の神として崇敬されていた。後年、現在の高台に移転、昭和20年(1945)7月2日の大空襲で消失したが、同26年(1951)に再建された。

北前船の寄港によって下関が繁榮していくにつれて、この稲荷町遊郭も隆盛となっていった。北前船が港に入ると、その船頭衆を稲荷町に案内するのが、大問屋の主人の仕事だったという。

元禄時代には稲荷町の遊女87人とあり、天保9年(1838)の『赤間関人別帳』によると、稲荷町には9軒あり、そのうち女郎を置いた家が4軒、三味線師匠のみの家2軒、貸し席3軒となっている。その中でも「大坂屋」が一番多きく女郎23人、禿13人、三味線師匠7人の規模であった。この大坂屋、幕末時に若き志士たちの舞台となったことでも知られている。長州志士のみならず、薩摩の西郷隆盛はじめ薩摩、土佐、筑前藩士たちの密会の場所でもあった。(記述:亀田 真砂子)

出典:『下関 その歴史を訪ねて』清永 唯夫著

稲荷町は遊女発祥の地と呼ばれ、壇ノ浦で敗れた平家の官女たちが自らの生計を得るために遊女となったと言われているが、その起源は元亀元年(一五七〇)頃に豊臣秀吉によってその存在を認められたと言われる。また稲荷町と平行に走るもう一本の道沿いに裏町と呼ばれる揚屋街があり、その発生時期は明らかになっていないが、『色道大鏡』にはすでにその存在が明記されている。稲荷町は当時下関の中心であった赤間、西之端町のそばであり、『色道大鏡』の中で稲荷町は「廓」構造を持ち、門外への外出を禁止しているのに対し、「廓」の外である裏町はその拘束力が弱いことが記述されており、実質的に「廓」の機能を果たしていない。
                      出展:『遊女の起源と遊廓の形成』 加藤 貴之著

 

東京第一ホテル裏手にあるサイン

稲荷神社に通じる石段と鳥居

末廣稲荷神社 (下関市赤間町5−5-4)

所在地・アクセス

所在地:山口県下関市赤間町6

五卿潜居の間

五卿潜居の間


文久3年(1863年)八月十八日の政変で、三条実美ら尊王派七卿は京を追われ、長州藩へ落ち延びた。翌元治元年第一回長州征伐の恭順講話の条件として、当時五卿となっていた三条卿らを太宰府に移すことになる。山口から太宰府への移送の途中、五卿は功山寺書院に2ヶ月滞在したのである。五卿警備のためと称して、奇兵隊はじめ諸隊も屯集している。

元治元年(1864年)12月15日、紺糸威の少具足を身に付け、桃形の兜を首に下げた格好の晋作は、兵を引き連れて功山寺へ赴き、五卿への面会を請う。この挙兵が反乱ではなく、義挙であることを示すためにも五卿への挨拶は必要であった。寝所から三条実美が現れると、晋作は三条へ挙兵を告げ出陣の盃を欲した。 三条は冷酒を注いでこれを与えた。
晋作は注がれた盃を飲み干し、

「これより、長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」

と挨拶をして立ち上がった。 三条は決起を止めるつもりであったが、話を切り出すタイミングが掴めずそのまま行かせてしまったという。この舞台となったのが、五卿潜居の間である。

天保7年(1835)長府藩主11代毛利元義が建立寄進した書院に、今も「七卿潜居の間」として保存されており、拝観することができる。この書院から眺める形で心字池を中心とした池泉鑑賞式庭園があり、長府随一と言われる苔に覆われた美しい姿を観ることができる。

所在地:下関市長府川端1丁目2−3

(記述:稲田 卓)

所在地・アクセス

所在地:山口県下関市長府川端1-2-3

萩藩新地会所跡

萩藩新地会所跡

功山寺決起の後に襲撃した場所

萩藩新地会所は萩藩の出先の役所で、享保4年(1719年)頃に、萩藩領であった下関菊川楢崎の地の一部と長府藩家老・細川宮内の給料地であった下関今浦地先とを交換し、この今浦地先に萩藩の御用所と倉庫を設置した。その後、宝暦12年(1762年)より、入江であった現在の下関市新地の埋立工事が着手されるに伴い、御用所を現在地に移したことから会所の歴史が始まる。

元治元年12月16日(1865年1月13日)早朝、長府の功山寺から襲来した高杉晋作、伊藤博文、遊撃隊、力士隊が会所に空砲を打ち込み、会所の取締役の根来上総が高杉晋作の要求に応じて解錠した。
これが世に言う高杉晋作らの功山寺の決起の最初の襲撃目標であった。

またこの付近には、高杉晋作所縁の史跡が多くあり、付近に長門国厳島神社、終焉の地、療養の地、桜山神社、了圓寺、ひょうたん井戸などがある。

(記述:松本和良)

所在地・アクセス

所在地:山口県下関市上新地町1丁目2−1

厳島神社 奉納太鼓

長門国厳島神社

晋作が小倉戦争の戦勝祈願をした神社

安徳天皇の乗る御座船に祀られていた安芸国の厳島神社の分霊が壇ノ浦の戦いの後に磯辺に放棄されたという。文治元年(1185年)、地元の住民たちが社殿を建立し、安芸国の厳島神社より分霊をあらためて勧請した。

高杉晋作は、慶応2年(1866年)の四境戦争を始めるにあたり、ここで戦勝祈願を行ったといわれている。小倉口の戦いでは、高杉晋作は奇兵隊と報国隊を指揮して戦った。同年8月1日(1866年8月29日)、幕府軍総帥小笠原壱岐守がついに小倉城を脱出し、自ら城に放火した。

城内に攻め入った長州軍は余燼の中から太鼓を持ち帰り、当神社の祭神へのお礼として奉納した。これが現在、拝殿前にある大太鼓である。この太鼓はケヤキのくり抜きで、直径1.10m、胴の長さ1.70mあり、城の楼に吊るして時を知らせていたものだった。持ち帰られた太鼓は神社の倉庫に入れたままであったのを、のち大正天皇御大典記念として大西吉郎が太鼓の張替えを、また松永幸作が太鼓堂を寄進し、厳島神社の名物となった。

この神社の付近には、高杉晋作所縁の史跡が多くあり、付近に萩藩新地会所跡、終焉の地、療養の地、桜山神社、了圓寺、ひょうたん井戸などがある。

(記述:松本和良)

所在地・アクセス

所在地:山口県下関市上新地町1丁目1−11

アクセス:JR下関駅からバス「厳島神社前」下車

公式ページhttps://itukushima.or.jp/

桜山神社

桜山招魂社と神社


文久3年(1863)高杉晋作が発案し、元治元年(1864)3月より奇兵隊士によって開墾作業が行われ、殉国の志士たちの魂を祀る日本最初の招魂場が創建された。靖国神社の招魂社の原型と言われている。

中央の吉田松陰の霊標のみ一段高く、両隣の高杉晋作、久坂玄瑞を初め、奇兵隊小者まで、391柱の霊標が身分に関係なく全て同じ高さで並ぶ。奇兵隊の精神を象徴しているかのような光景に胸が熱くなる。

八月十八日の政変により七卿落ちとなった三条実美ら五卿が、元治元年(1864)3月に下関の海防視察の際に招魂場に参拝し、社殿の必要性をといている。
その事蹟を顕彰して、「七卿史跡碑」が社殿登り口石段右手の保存樹シイノキの下に建立された。
六卿のうち、錦小路頼徳は病のため白石邸で療養する身となり、翌月25日に没している。錦小路の霊を山口にて葬ることになり、本人から桜山に祀ってほしいとの希望があり、三条が藩に申し出るが、合祀はかなわなかった。そこで、遺品(烏帽子・狩衣・袴・扇子等)を桜山招魂社におさめ祀るようになった。
三条らにとっても桜山招魂社は思い入れの強い場所である。
この春の参列以降、春季例祭(桜祭)がおこなわれるようになり、それは現在も続いている。

その後、慶應元年(1865)に社殿も完成し、8月の竣工式にて、晋作は漢詩と和歌を残しており、晋作直筆の碑が建立されている。

 弔らわる人に入るべき身なりしに弔う人となるぞはづかし

――晋作の同志に対する熱く切ない想いが窺える。
療養中にもたびたび訪れたという桜山招魂社。晋作の心を垣間見ることのできる聖地ともいえる場所である。

また桜山招魂社の御宝物には、晋作が使用した「愛玩石」や「小硯」、伊藤博文・山縣有朋・木戸孝允らの書などが納められている。これらは当時、本人達が自ら納めたものである。

招魂社の近くには、高杉晋作療養の地、高杉晋作終焉の地、嚴島神社がある。

所在地:下関市上新地町2丁目6 http://www.sakurayamajinja.com

(記述:溝辺悠未)

所在地・アクセス

所在地:山口県下関市上新地町2丁目6-22

アクセス:JR下関駅からバス「厚生病院前」下車 徒歩5分

公式ページhttp://sakurayamajinja.com/

白石正一郎邸(奇兵隊創設の地)

白石正一郎邸-奇兵隊創設の地-


白石正一郎は文化9年(1812)、馬関の荷受問屋小倉屋の長男として生まれた。鈴木重胤から42歳の時に平田国学を学び、薩長交易の開拓にも熱心であった。尊王思想に傾倒して以降、勤王の志士たちを損得抜きで支援し、西日本における尊攘運動の拠点となった。「白石正一郎日記中摘要」によると、その人数はざっと400人にも及び久坂玄瑞、桂小五郎、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、坂本龍馬、中岡慎太郎、真木和泉、平野国臣、中山忠光、三条実美、野村望東尼など藩内外の多数の志士たちを支援し続けた維新の陰の立役者である。

正一郎宅跡は高杉晋作奇兵隊結成の地碑と並んで、下関市竹崎町の中国電力下関支社地の一画にある。

文久3年(1865)6月、外国船砲撃後の報復攻撃で藩の脆弱な防備の回復を藩主毛利敬親より一任された晋作は、藩が主導するのではなく、身分に関係なく、まったく新しい組織と運営方法をとらなければならないとの考えを投じ、52歳の正一郎に奇兵隊設立の援助を打診すべく正一郎宅を訪ねた。正一郎は、自分の歳の半分にも達しない晋作の容易ならざる人物を見抜いて快諾。6月8日奇兵隊を当地にて結成した。正一郎は弟の廉作と共に入隊し会計方となる。募兵活動を始め、物資や屋敷も奇兵隊の本陣として提供した。たちまち隊員が60名を超えたことから、阿弥陀寺(現赤間神宮)と極楽寺に本陣と屯所を移した。

一方、正一郎の母艶子においても、晋作の妻雅子と愛人おうの、国臣の愛人お秀、勤王歌人野村望東尼など回天の志士が安心して闘えるようにもてなし、三条実美卿はそのもてなしに「妻子らも心ひとつに君のためつくせる宿ぞさきくもあらめ」という句を残している。正一郎は家財が破産するまで尊攘運動に尽力したが、維新後は商売からも身を引き、招魂場の奉仕や赤間神宮の宮司としてひっそり過ごしたという。

(記述:谷田正彦 写真:吉岡一生)

所在地・アクセス

所在地:山口県下関市竹崎町3-8

移築された白石邸の浜門

移築された白石邸の浜門


下関竹崎の海は、西に日本海、東に瀬戸内海に続き、北前船の寄港地としてにぎわっていた。庄屋の格式、回船業の商いをしていた白石家は卯兵衛、正一郎父子の時代に最盛期を迎えて巨大な富を築いており、敷地の一角の浜門が海に面して開かれていた。

当時の下関港は、都と九州を結ぶ交通の要衝でもあった。白石正一郎日記摘要によると、出入りした人々はおよそ千五百人。このうち、志士と呼ばれる人が四百余人もいた。それも幕末、維新史を彩る西郷隆盛、坂本龍馬、平野国臣、梅田雲浜、真木和泉らと枚挙にいとまない。また中山忠光卿や都から逃れてきた七卿なども白石の世話になっている。だが、正一郎の人生掉尾を運命づけたのはなんと言っても高杉晋作であった。心底高杉に惚れ込み、彼の最期まで物心両面を支えた。

全国の攘夷派の志士達は白石を頼り、この浜門をくぐって国事に奔走した。現在は長府松小田本町の静かな小道に面して、この白石家の浜門が移築されて現存している。

(記述:谷田正彦)

所在地・アクセス

所在地:山口県下関市長府松小田本町11-26

大歳神社

大歳神社

白石正一郎ゆかりの神社

下関市竹崎町の高台にある大歳神社もまた維新史回顧に欠かすことのできない場所である。大鳥居には「文久二年歳次壬戌春正月吉日 白石正一郎越智資興建」と刻まれている。文久2年(1862)に氏子であった正一郎が攘夷成就の祈願として寄進したもので、奇兵隊旗揚げの軍旗もこの神社に奉納している。

境内には「七卿烈士潜寓画碑」「明治維新萌漸之史跡碑」の記念碑がある。その一つは八月十八日の政変によって三条実美ら七卿の都落ちで西下する道中姿を写刻した画碑である。七卿の内、澤宣嘉以外の六卿は白石家に下関の防御態勢視察のために滞在しており、錦小路頼徳は白石邸で死去している。そうした縁から、白石家ゆかりのこの神社に画碑が建立されたものであろう。

一方の明治維新萌漸之史跡碑も、白石家の功績を語るものであり、大歳神社全体が白石家顕彰の意義を持つ。かつては下関駅西口付近(有明山)にあったが、昭和15年、関門鉄道トンネル開通にともなう下関駅移転のため現在地に遷座されている。

(記述:谷田正彦)

所在地・アクセス

所在地:山口県下関市竹崎町1-13-284

アクセス:JR下関駅 徒歩5分

公式ページhttp://ootoshinomori.sakura.ne.jp/

馬関越荷方役所跡

馬関越荷方役所跡

晋作はここの役人も務めた

幕末当時は、この辺りは北前船の寄港地として大変なにぎわいだったようだ。
積荷は、北から運ばれてくる昆布、数の子など。しかし、その繁栄する港や問屋街が支藩である長府藩の領地であったため、萩本藩ではすでに萩藩領の一部であった下関の今浦の地先に注目。この今浦と伊崎の間の入海を埋め立てる。これが「新地」であり、これが本藩の下関港進出の拠点となった。萩本藩は新地の港湾を整備し、ここに新地会所や密貿易監視の八幡改方(ばはんあらためがた)など出先機関を集め、やがて越荷方役所の設置となる。越荷とは、北越方面から廻送する荷という意味である。運搬された荷物を担保に保管・金融業及び販売を行い、藩は莫大な利益をあげた。長州藩の隠し財産「撫育資金」をさらに稼ぎ出したところでもあるようだ。
はじめは新地にあった役所が、やがてこの南部(なべ)町に移転した。南部町一帯は、その繁栄ぶりを表す多くの倉庫が立ち並んでいたという。

11月17日慶応元年(1865)、晋作は馬関越荷方頭人となる。それは、長州藩の財政と兵糧を確保する最大の機関の責任者であった。萩の妻子が藩の許可を得て下関に引っ越してくることを見ても、この任務が一時的なものではなかったであろうことは明らかである。
そのようなドル箱ともいうべき長府藩領の下関を、全面的に萩本藩の直轄地にしようとする「馬関替地論」を唱えた高杉晋作らが長府藩士から命を狙われて、愛人おうのとともに四国へ亡命するという事件が起きた。

幕末に長州藩が倒幕の先頭に立って果敢な行動を展開できたのも、この撫育方の財源、ひいては下関港経営の成功があったからだと言えよう。

(記述:亀田真砂子)

出展:「下関その歴史を訪ねて」清永唯夫著

所在地・アクセス

所在地:山口県下関市南部町17

墓碑銘

東行墓、墓碑銘


慶応3年(1867)4月14日、27年8ヶ月の生涯を閉じた高杉晋作。その遺骸は彼の遺言により奇兵隊の本陣が置かれた吉田清水山に葬られた。奇兵隊の本営は庄屋の末富寅次郎家に置かれていた。晋作の墓地の選定には末富虎次郎が尽力した。

葬儀は4月16日数千人が吉田に会葬し、白石正一郎などが神式で一切を取り計らって執り行われた。晋作は元治元年(1864)12月の功山寺決起直前に大庭伝七あて書状に遺言として墓誌を記した。
その墓碑銘はこうであった。

 表 故奇兵隊開闢総督高杉晋作則
西海一狂生東行墓 遊撃将軍谷梅之助也

裏 毛利家恩古臣高杉某嫡子也

しかし本人が記した墓誌は、葬儀ののちに判明したため、墓石には高杉晋作の号から「東行墓」とのみ刻まれている。墓所には木戸孝允、井上馨、伊藤博文により寄進された石灯籠が建っている。

昭和9年(1934)5月1日、墓所は国の史跡に指定された。
東行墓の隣には福田公明(侠平)の墓が並んで建っている。文久3年(1863)35歳の時に奇兵隊に入隊、数々の軍功をたて奇兵隊の軍監を務めた。人望が厚く高杉晋作に最も信頼されていた。明治元年(1868)11月12日戊辰戦争で勝利して凱旋、直後の11月14日下関で病没。遺言により東行墓の隣に葬られた。
また高杉晋作の墓所「東行墓」の一段下には、42年間晋作を弔い続け明治42年(1909)8月7日に亡くなった梅処尼の墓が安置されている。

平成28年(2016)4月14日高杉晋作没後150年記念事業として、作家の故古川薫氏らが中心となり、晋作が遺言で記した墓誌の墓碑銘が建立された。晋作の願いが150年目に叶ったのである。

(記述:松尾美弥子 墓碑銘の写真:吉岡一生)

所在地・アクセス

所在地:山口県下関市吉田町1184番地

アクセス:JR山陽本線小月駅からバス 14分 「東行庵入口」バス停から徒歩5分

公式ページhttps://www.tougyouan.jp/

奇兵隊墓地

奇兵隊墓地


維新戦争で亡くなった長州諸隊士の多くが十代、二十代の青年で子孫もなく、無縁仏となり荒れ果てるケースが多かった。東行庵三世・谷玉仙尼が昭和四十六年、墓地を開き全国各地から隊士の墓を集め供養顕彰した。

ここには奇兵隊に支援を続けた白石正一郎、奇兵隊三代総督を務めた赤根武人の墓など140基が建立されている。
毎年11月の第2土曜日に「奇兵隊並びに諸隊士合同慰霊祭」が関係者、遺族らで行われている。

(記述:松尾美弥子)

所在地・アクセス

所在地:下関市吉田町1184番地

療養の地 桜山の東行庵

療養の地-桜山の東行庵-


どこでその病を得たのか・・・
慶応2年の四境戦争のさなか、戦闘の勝利が次々に晋作の元に報告されつつある頃、彼の身体は軍務に耐えられないような状態にあったようだ。
不調を初めて訴えたのは、小倉戦争の最中の7月22日であった。この時、白石正一郎が町医の石田精一を往診に招いている。
9月4日、「夜に入り血痰あり石田医師及軍病院よりも呼ぶ」と白石正一郎日記にある。決定的な病状。当時は死の病「結核」だった。
最初は白石邸で養生をしていた晋作だが、白石家の老人が重病ということもあり、晋作はおうのを連れて入江和作邸に移った。10月20日、全ての役職を解かれ、10月27日、奇兵隊士の眠る桜山招魂社近くに小さな家が完成し、移り住む。もともと野村望東尼のための家であったようだが、晋作の病状が進んだため療養の場となり、東行庵または捫虱所(もんしつしょ)と名付けた。ここでは、愛妾おうのと野村望東尼に看病され療養生活を送った。もちろん、石田ほか藩内の精鋭の蘭方医たちによる診療もあった。

ここで、慶応2年も暮れる。親思いの晋作は、萩の父へと書簡と歌を送っている。

 人は人吾は吾なり山の奥に 棲みてこそしれ世の浮き沈み

また一句は

 うぬ惚れで世は棲みにけり歳の暮

司馬遼太郎の『世に棲む日々』というタイトルはこれがヒントであろう。
自分は親不孝ばかりしてきたが、こうして国(長州)を守ったという自負を、父に対して誇らしげに、「うぬ惚れ」という言葉に込めている。

(記述:亀田真砂子 写真:吉岡一生)

所在地・アクセス

所在地:山口県下関市新地町3-22

高杉東行終焉の地

高杉東行終焉の地


翌年慶応3年(1867)3月、正妻のマサが看病のために萩から訪れることになり、桜山の東行庵から新地の林算九郎邸の離れに移る。林は、白石正一郎の親戚筋にあたる大庄屋だった。本当の林邸は、ここから数十メートル離れたところにあったようだ。

小倉城落城の頃から、病状の進んだ晋作は起き上がれなくなった。
皆の必死の願いも空しく、4月13日深夜、一代の風雲児はこの世を去った。享年29歳(満27歳8ヶ月)という短い生涯であった。
命日は4月14日。今でも、命日の日は新地の地元の方々が法要を営み、奉納の詩吟や舞などが披露される。
武家の妻として威儀を正してきたマサは7年の結婚生活であったが、晋作と暮らしたのはわずか1年あまりだった。最期をここで共にした彼女は、どのような思いであっただろう。

古い写真は、高杉晋作13回忌の時にここで撮られたもの。男性は、晋作の孫の春太郎、続いて東一の妻。その横は林算九郎夫人と伝えられている。
新しい写真は、2016年高杉晋作150回忌の年に、白石正一郎ご子孫の白石明氏により整備されてすぐのもの。白石さんは現在までも高杉にとって恩人であるようだ。

(記述:亀田真砂子  写真:吉岡一生)

所在地・アクセス

所在地:山口県下関市新地町3-22

晋作の葬儀が行われた「末富家」


白石正一郎が日記に簡潔に記している。

十四日 朝、林(林算九郎)よりかへる高杉神祭一条、片山と申談示書付遺し候、昼前より山県狂介、福田侠平来り高杉神祭一条談示、一酌、夜中帰る。
十五日 今日高杉の神祭用具悉く此方へ預かり置き候。

これは、晋作の葬儀を白石が執り行う準備についてである。

晋作は亡くなる直前に「吉田へ」と言ったために、吉田清水山に葬られた。これは色々異説もあるが、奇兵隊の初めての陣屋ができた地であること、また当時の吉田は萩藩領であったということを考えあわせると、吉田に行きたかったという風に解するのが一番率直な受け取り方であると思う。

さて、吉田の清水山に葬られる前に葬儀はどこで行われたか、であるが、吉田の庄屋であった末富家がその場所となった。
「末富虎次郎日記」によって十六日当日およびその後の様子がわかる。谷君というのは、「谷潜蔵」と藩主から賜った名前の高杉晋作のことである。

四月十六日 晴

谷君神祭も弥今日に相決し八つ時自宅(末富家)著、老御夫婦、御舎弟御奥、若旦那(東一)従者家来共十人自宅引受に候へども、神霊御降り、尚出棺、斎等は自宅にて差出し、奇兵隊本陣那珂並に隊長中其の他来客とも都合十八人、種々の事に付き、石原、赤間、両小触れ、新庄、芳兵衛、嘉蔵、女中お夏、お藤、新庄娘、吉兵衛、ゆき、尚平蔵も来り、終日大混雑、暮方出棺、五つ時葬式相すみ、山県、片山両君は自宅泊り。宿割左の通り
谷神霊並に家内中、奇兵隊本陣隊長中、馬関来客十五人、駕籠の者六人、長府清水、梶山、好義隊

四月十七日 晴
谷御家内中、神霊御墓参、右相済み酒差し出し、奇兵隊よりも本陣中暇乞御出、四つ時出立、御帰萩相成、夫より御本陣の人数にて酒宴相始まり、隊長中も御出、多人数に相成り申候

晋作の葬式は白石正一郎が神式で取り仕切った。

さてこの吉田に現存する末富家であるが、一部当時のままの家屋である。外観としては、屋根瓦の意匠に当時の雰囲気が偲ばれる。現在もご子孫がお住まいで、こうして看板を取り付けて史跡としてわかるようにしておいてくださることが有り難い。
訪ねる際には、どうぞくれぐれもお静かに。
(記述・亀田 真砂子)

所在地:下関市吉田914(吉田小学校の脇にある旧吉田街道筋に、末富家はある)

末富家外観

2階には、一時期、山県有朋が住んでいたとも言われる

所在地・アクセス

所在地:所在地:下関市吉田914(吉田小学校の脇にある旧吉田街道筋に、末富家はある)