下関 稲荷遊廓


現在下関市唐戸にある東京第一ホテル裏あたりが昔、稲荷町といわれ賑わった遊里である。
風情ある建造物とか、今は全くないのが残念である。

表の稲荷町に対して、「裏町」と呼ばれる色里があり、そこに「堺屋」という妓楼があった。高杉晋作の運命の女性おうの(源氏名:此の糸)が居たところである。高杉とはいつ出会ったのかはっきりわかっていないが、生死をかけた高杉に寄り添い、最後は墓守をして一生を終えた女性である。

東京第一ホテルの裏手の細い道の先に石段がありそこをあがっていくと稲荷町の名残を留める稲荷神社がある。町名の起こりであり、町の守り神でもあったこの稲荷神社は、伝えでは大同4年(809)の創始ということで、下関の旧市街地である赤間席で最も古い時代の神社であり、土地柄から商売繁盛の神として崇敬されていた。後年、現在の高台に移転、昭和20年(1945)7月2日の大空襲で消失したが、同26年(1951)に再建された。

北前船の寄港によって下関が繁榮していくにつれて、この稲荷町遊郭も隆盛となっていった。北前船が港に入ると、その船頭衆を稲荷町に案内するのが、大問屋の主人の仕事だったという。

元禄時代には稲荷町の遊女87人とあり、天保9年(1838)の『赤間関人別帳』によると、稲荷町には9軒あり、そのうち女郎を置いた家が4軒、三味線師匠のみの家2軒、貸し席3軒となっている。その中でも「大坂屋」が一番多きく女郎23人、禿13人、三味線師匠7人の規模であった。この大坂屋、幕末時に若き志士たちの舞台となったことでも知られている。長州志士のみならず、薩摩の西郷隆盛はじめ薩摩、土佐、筑前藩士たちの密会の場所でもあった。(記述:亀田 真砂子)

出典:『下関 その歴史を訪ねて』清永 唯夫著

稲荷町は遊女発祥の地と呼ばれ、壇ノ浦で敗れた平家の官女たちが自らの生計を得るために遊女となったと言われているが、その起源は元亀元年(一五七〇)頃に豊臣秀吉によってその存在を認められたと言われる。また稲荷町と平行に走るもう一本の道沿いに裏町と呼ばれる揚屋街があり、その発生時期は明らかになっていないが、『色道大鏡』にはすでにその存在が明記されている。稲荷町は当時下関の中心であった赤間、西之端町のそばであり、『色道大鏡』の中で稲荷町は「廓」構造を持ち、門外への外出を禁止しているのに対し、「廓」の外である裏町はその拘束力が弱いことが記述されており、実質的に「廓」の機能を果たしていない。
                      出展:『遊女の起源と遊廓の形成』 加藤 貴之著

 

東京第一ホテル裏手にあるサイン

稲荷神社に通じる石段と鳥居

末廣稲荷神社 (下関市赤間町5−5-4)

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