挙兵騎馬像(功山寺)

挙兵騎馬像(功山寺)
挙兵騎馬像(功山寺)

 曹洞宗功山寺の境内に建立されている。高杉晋作は、元治元年(1964)12月15日、この地で維新回天へ向け決起した。この馬上の像は、昭和47年(1972)12月15日、市内みもすそ川町の西山音治宅から移設建立されたもの。

 内憂外患のこのとき、倒幕への藩論を統一し、行動を起こすことが、なにより大切と考えたのち、その決意のほどを漢詩「焦心録題」に詠んでいる。大要は、国家存亡の危機に際し、親を捨て、子を捨てることになっても、何ら悲しむことはない。また、自らの死も覚悟し、次のような墓誌銘まで用意していた。

 表 故奇兵隊開闢総督高杉晋作則

 西海一狂生東行墓 遊撃将軍谷梅之助也

 裏 毛利家恩古臣高杉某嫡子也

 挙兵の地として功山寺が選ばれたのは、三条実美など五卿が潜居しており、挙兵を告げることによって、この挙兵が私的なものではなく、五卿の意を体した義挙とするためであった。

 挙兵した時、彼は25歳の若さで、挙兵に際し「一里ゆけば一里の忠、二里進めば二里の義あるのみ、諸君、僕といっしょに命を投げ出そうという者はおらんか」と呼びかけ、反対する者もいたが、伊藤俊輔(のちの総理大臣伊藤博文)が力士隊を、また石川小五郎が遊撃隊を連れて、加わり総勢は80人ほどであった。

 この決起があってこそ、明治維新が実現へと歩み出し、まさに胎動の地と言えるもので、功山寺入り口の総門には、横山健堂の「高杉晋作回天義挙之所」の碑がある。

(記述:安冨静夫)

所在地・アクセス

所在地:山口県下関市長府川端1丁目2-3

備前焼陶像(東行庵清水山)

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