五卿潜居の間
文久3年(1863年)八月十八日の政変で、三条実美ら尊王派七卿は京を追われ、長州藩へ落ち延びた。翌元治元年第一回長州征伐の恭順講話の条件として、当時五卿となっていた三条卿らを太宰府に移すことになる。山口から太宰府への移送の途中、五卿は功山寺書院に2ヶ月滞在したのである。五卿警備のためと称して、奇兵隊はじめ諸隊も屯集している。
元治元年(1864年)12月15日、紺糸威の少具足を身に付け、桃形の兜を首に下げた格好の晋作は、兵を引き連れて功山寺へ赴き、五卿への面会を請う。この挙兵が反乱ではなく、義挙であることを示すためにも五卿への挨拶は必要であった。寝所から三条実美が現れると、晋作は三条へ挙兵を告げ出陣の盃を欲した。 三条は冷酒を注いでこれを与えた。
晋作は注がれた盃を飲み干し、
「これより、長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」
と挨拶をして立ち上がった。 三条は決起を止めるつもりであったが、話を切り出すタイミングが掴めずそのまま行かせてしまったという。この舞台となったのが、五卿潜居の間である。
天保7年(1835)長府藩主11代毛利元義が建立寄進した書院に、今も「七卿潜居の間」として保存されており、拝観することができる。この書院から眺める形で心字池を中心とした池泉鑑賞式庭園があり、長府随一と言われる苔に覆われた美しい姿を観ることができる。
所在地:下関市長府川端1丁目2−3
(記述:稲田 卓)