萩藩新地会所跡
功山寺決起の後に襲撃した場所
萩藩新地会所は萩藩の出先の役所で、享保4年(1719年)頃に、萩藩領であった下関菊川楢崎の地の一部と長府藩家老・細川宮内の給料地であった下関今浦地先とを交換し、この今浦地先に萩藩の御用所と倉庫を設置した。その後、宝暦12年(1762年)より、入江であった現在の下関市新地の埋立工事が着手されるに伴い、御用所を現在地に移したことから会所の歴史が始まる。
元治元年12月16日(1865年1月13日)早朝、長府の功山寺から襲来した高杉晋作、伊藤博文、遊撃隊、力士隊が会所に空砲を打ち込み、会所の取締役の根来上総が高杉晋作の要求に応じて解錠した。
これが世に言う高杉晋作らの功山寺の決起の最初の襲撃目標であった。
またこの付近には、高杉晋作所縁の史跡が多くあり、付近に長門国厳島神社、終焉の地、療養の地、桜山神社、了圓寺、ひょうたん井戸などがある。
(記述:松本和良)