鰐川村舎
晋作と妻マサの寓居 義父・井上平右衛門宅の離れ座敷
その手紙の表書きには、
鴻城鰐川村舎南窓取筆
の文字が見える。
文久3年(1863)10月30日、晋作は、公私の事情を記した長文の手紙を、父・小忠太に送った。
鰐川とは鰐石川のことで、山口市内を流れる椹野川の鰐石橋周辺の川を指す。したがって、鰐川村とは、現在の鰐石町周辺のことと思われる。
当時、晋作と妻マサは、山口町奉行の職に就いていた義父・井上平右衛門宅の離れ座敷に身を寄せていた。鴻城鰐川村舎とは、この建物のことであろう。
その離れ座敷だが、母屋、客間、中庭を隔てた場所にあり、6畳と4畳半の2部屋しか無かったようだ。町屋特有の、間口が狭く奥に長い、うなぎの寝床のような場所だったのだろう。そこでふたりは、2畳ばかりの落室を増築し、そこを家政婦の住む部屋としたようだ。落室とは、普通の座敷より少し床板を低く作る部屋のことをいう。
晋作は、妻を一度も叱ったことがなかったという。ふたりが一緒に暮らした期間はわずかであったが、ここ鰐川村舎での暮らしが、彼らの生涯において最も充実した時期であったものと思われる。
長男の梅之進(東一・春雄)が生まれたのは、翌年の元治元年(1864)10月5日のことであった。
(記述:松前了嗣)