万徳院跡
晋作が奇兵隊を率いて秋穂二島に移陣した際、本陣となった場所
士と申者ハいつ死ぬる事か知れぬ者ゆへ、我れらてもわすも死ぬる事カ有か知ぬ。右に付、そもしも士の妻なれは、夫ガ死ぬれは、わとを守り、操を立て、夫のほをむりを致すガ女の役目ニて御座候。我れらハ死してもそもしの事はわすれ不申候
文久3年(1863)8月16日、晋作は、萩にいる妻マサに手紙を書いた。この日夜、下関では奇兵隊が、日頃から対立していた先鋒隊の屯所、教法寺を襲撃。両隊ともに死者を出した。
この事件の責任を取るため、晋作は、下関を訪れていた世子・毛利元徳に、切腹を申し出るが、27日、事件の発端となった宮城彦助が切腹することになり、彼は政務座役を罷免されるに留まった。
9月2日、奇兵隊は吉敷郡二島村(現・山口市秋穂二島)へ転陣を命じられた。3日、3人の隊士が屯所の下見のため秋穂浦に到着。泉蔵坊(現・栄泰寺)、万徳院、真善坊、遍照寺を屯所に定めた。5日から6日にかけて7艘の船が秋穂浦と二島に到着、移陣が完了。7日より万徳院を本陣とし当直を始めた。当時の晋作の行動は明らかではないが、9日、彼は山口から奇兵隊本陣へ手紙を送っていることから、二島村に到着後、直ちに山口へ向かったものと思われる。
(記述:松前了嗣)