大田絵堂戦跡の地 -長州藩大田絵堂戦跡最-
大田絵堂の戦いは、長州藩で起きた半月ばかりの内戦。椋梨藤汰ら萩政府保守派と高杉晋作ら改革派が起こしたこの戦いの意義は、非常に大きなものがある。
この戦いの一番の激戦地が、呑水(のみず)の戦いであり「大田絵堂戦跡の地」の碑は、呑水垰(たお)に立っている。ちなみにこの「垰」の意味は「山の尾根で低くくぼんでいる」ということだ。
慶応元年(1865)正月14日萩政府軍の攻撃を、堤の土手を盾にしての改革派の防衛戦が起きる。
赤川隊長は、覆面頭巾・高下駄と傘で政府軍を挑発したと言われる。
諸隊の形勢不利を見かねて、後方赤迫(あかさこ)を守備していた南園隊大木津(おおこつ)の奇兵隊等が応援に駆け付け、萩政府軍を見下ろす高所から銃撃する。
雪まじりの風雨で、萩政府軍の火縄銃が役に立たず天気も加勢したのか、形勢逆転し決定的な勝利とつながった。
この、呑水堤は当時と変わらない様子で今も残る。
この付近から銃弾が見つかったという話も聞く。
激戦地だけあり、呑水堤は血で赤く染まっていたため「のまず堤」と言われていた、と今も現地の人が語り継いでいる。
(記述:桐原きよみ)